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カリカチュアとは|日本漫画の原点となった「いじり」の芸術

旅行先で似顔絵を描いてもらったことがある方は多いだろう。そして「できました〜♪」と化け物のような絵を手渡された人もいるでしょう。「おいできたじゃねえよ」と怒っちゃった方もいるかもしれない。

似顔絵屋は基本的に写実では描かない。デッサンではなくエンタメである。なので忠実に似せる気なんてさらさらなく、超笑わせる気でふざけて描くのが彼らの仕事だ。

こうした表現を「カリカチュア」という。つまり対象の容姿の特徴や性格などを、これでもかと誇張して描いた表現のことだ。

カリカチュアは、まだ日本で「マンガ」という概念が生まれるずっと前から存在した技法だ。また「カリカチュアなくして、日本のマンガやアニメは生まれなかった」というほどカルチャーにとっても大事な存在である。

今回はそんなカリカチュアについて、たっぷり歴史を遡るとともに、日本のサブカルチャーにどんな影響を与えたのかを見ていこう。

カリカチュアは遥か古代から存在した

「カリカチュア」という言葉こそなかったものの、カリカチュア的な表現は遥か昔から存在した。例えば古代エジプト絵画には民衆に対する風刺画が残っているし、ヨーロッパでも昔から「天使」「悪魔」というモチーフが描かれてきたわけだ。

めちゃにこやかな悪魔なんて見たことないだろう。悪魔は今でも紫か黒の身体に矢印みたいな尻尾、目が吊り上がり、やたら口が横に広い。誰も悪魔を見たことがないが、こうした描き方をされてきた。

日本では縄文時代に「線刻戯画」という瓦に僧侶の顔や身体を誇張して描いたものが見られる。その他には法隆寺の天井に、当時の大工がこんな落書きをしている。

板の模様のせいで疾走感がすごいのは置いておこう。これは明らかに人の顔を誇張して描いており、立派なカリカチュアだ。絵描きでなく大工の作品だが、それほどまでに「絵をちょっとおもしろおかしく描いてみる」という遊びは無意識的に生まれていたのである。

「カリカチュア」という言葉が生まれたのは17世紀

当時はもちろんカリカチュアはあまり取り沙汰されなかったが、16世紀後半〜17世紀にめちゃめちゃ流行る。当時の画家たちはアカデミーで学び、肖像画やら宗教画などの写実的でくそ真面目な絵を描いていた。いわゆる「マニエリスム」という時代だ。マニエリスムについては以下のカラヴァッジョの記事でも紹介しているのでぜひ。

真面目な絵ばっかり描いていると、さすがに疲れるわけである。たまには馬鹿らしい絵をささっとノートの片隅に描きたくなるのだ。

なので当時のマニエリスムの画家たちは、たまにノートにふざけ倒した絵を走り描きしていた。特にボローニャ派といわれる画家たちの間でサブカルとして流行し「カリカチュア」と呼ばれるようになる。これはイタリア語で「caricatura」。「誇張された」「ゆがめられている」という意味だ。

当時のマニエリスムの超大スター・カラッチも描いている。普段の絵と比較するとおもろい。こんな雑な絵を描きたくなるときもあったのだ。

アンニーバレ・カラッチ「豆を食う人」

カラッチのカリカチュア

さて、とはいえ当時は「カリカチュア」の定義なんてない。無意識的に描いていた おもしろ似顔絵 が定義されるのは1681年のことだ。メディチ家のもとで美術家の伝記などを描いていたフィリッポ・バルディヌッチが自著「絵画用語辞典」のなかで「はーい! この落書き、もう定義しちゃいまーす」と声を上げた。彼は以下のようにカリカチュアを定義する。

それはモデルの全体像の可能なかぎりの類似を目ざしたもので、冗談ないしは嘲笑を目的としてその人物のもつ欠点を故意に強調し、容貌の諸要素がすべて変形されているにもかかわらず、全体としてはその肖像がまさにモデルそのものであるように描かれた肖像画を指す

Wikipediaより抜粋

ややこしいので、簡単にすると「モデルをいじりまくった似顔絵のことです。ただ誰の似顔絵を描いているかは分かるようにせぇよ。ただの変な絵じゃないよこれ」としたわけだ。

政治に利用され始めるカリカチュア

そのころ、だんだんとカリカチュアが世に認められるようになる。そのキーマンが彫刻家、肖像画家ののベルニーニと画家のカロだ。

ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ「Beata Ludovica Albertoni」

ジャック・カロ「戦争の惨禍」

ベルニーニは言わずもがな、世界で最も有名な彫刻家の一人であり、肖像画家でもある。彼はもともと宗教をモチーフにした作品を作っており、その高い技術はまさに折り紙付き。イタリア中が「彫刻はもはやベルニーニのもんだろ」と称賛した。

彼の彫刻は人物それだけでなく、装飾が山ほど施されているのが特徴だ。いわばオーラのようなもの。「いや実際は目に見えないよ?でもこっちのほうが雰囲気出るっしょ」という感じで付けていた。彼は根が演出家だったわけだ。

この「演出」という行為がカリカチュアにとっては超重要である。ベルニーニはこの手法を一般人にも適用した。結果として、非常にカリカチュア的な作品になったわけである。

またカロはもともとエッチングの画家だった。彼もまた当時は食うために肖像画などを描くが、同時にファンタジックな作品も描いた。とても当時の画家が描いたとは思えないほど、奇天烈で一風変わった(グロテスク)なものが多い。

このカロのグロテスクな表現は今後、カリカチュアの代表的な特徴となっていく。

政治利用されるカリカチュア

こうしてカリカチュアの基本ができたわけだが、まだ18世紀などは評価も低かった。「雑な絵もおもろいけど、ちょっと下品よねぇ」という感じ。それが大衆に認知されるきっかけになったのが「風刺画」である。

18世紀のイギリス、そしてフランス政治批判としての風刺画がガッツリ流行し始める。もともとプロの画家たちは「ちょっとカリカチュアは……ねぇ? ほら私たちアカデミックですし」と描くことすら拒んでいた。

しかしアマチュア画家たちは「俺らたのしい絵を描きたいんで!」とカリカチュアをガンガン描き始める。このころの人気絵師はイギリスのジェームズ・ギルレイや、トマス・ローランドソン。彼らはナポレオン、またブルジョワ階級に関する風刺画を描いた。

さらにフランスではオノレ・ドーミエがカリカチュアとして「梨頭シリーズ」を描き、人気画家となった。梨頭はめちゃおもろいけど「なんでこれ売れたん?」ってくらい意味不明だ。

ジェームズ・ギルレイ

トーマス・ローランドソン

オノレ・ドーミエ

こうした風刺画が描かれていたメディアは主に新聞。これがポイントだった。大衆向けに国王や政治を批判する絵を描いたことで、風刺新聞は大人気となる。はじめはフランスの「シャリバリ」からはじまり、イギリスの「パンチ」などが発刊された。風刺新聞がヨーロッパを席巻するのである。

日本へのカリカチュアの到来、そして明治マンガの誕生

この「パンチ」がとにかくイギリスで大ブームになる。これを知った在日イギリス人のチャールズ・ワーグマンは「日本に住んでるイギリス人にも読んでもらいたい」と在日イギリス人向けの「ジャパン・パンチ」を創刊する。

イギリス人視点で日本の政治のおかしさを描いた「ジャパン・パンチ」は日本で大ヒットし、逆に日本人がワーグマンの真似をして「絵新聞日本地」「團團珍聞」といった風刺新聞を作り始めた。

こうして日本初のカリカチュアができるわけである。ちなみに、この風刺新聞の記者は「漫画記者」と呼ばれるようになる。

ここが「鳥獣戯画」「北斎漫画」以来となる、日本の漫画文化の再出発点だ。北沢楽天が「キャラクターっておもしれえ」とキャラデザを磨き始め、漫画記者でもあった岡本一平が「コマ表現でストーリーって作れんじゃね」と、コマ割りの概念を見つけていく。

そこから「のらくろ」などが生まれて、戦争を終えたあとに、戦前漫画の影響を受けた手塚治虫が登場し、現代のストーリーマンガの原点を作るわけだ。その後の歴史はぜひ以下の記事から見ていただきたい。

つまり日本漫画カルチャーの歴史はヨーロッパから輸入されたカリカチュアが原点なのである。

カリカチュアは今や絵だけに収まらない

さて、どうだっただろうか。今回はカリカチュアの歴史を遡ってみた。冒頭でお伝えした通り、現代でもカリカチュアはまだ生きている。似顔絵はユーモアなので、決してブサイクに描かれても、怒ってはいけませんよ。

今や発信するメディアが増えたおかげで、カリカチュアは絵だけには収まらないものになった。例えば以前お伝えしたタモリの「寺山修司のモノマネ」は、「寺山修司が言いそうなこと」を勝手に誇張してしゃべったものだ。いや冗談抜きで、ベルニーニの手法と一緒である。

またコロッケや原口あきまさなどのモノマネ芸人も同じだ。あれはまさしくカリカチュアなのである。

カリカチュアは今でも生きているからこそ、注目してみるとおもしろい。意外と皆さんの身の回りで見つかるかもしれませんよ。

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