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「依存」は良いこと、悪いこと?

少し前から「依存」という単語を頻繁に耳にする。強迫性障害などのように、人や物、行為への依存から抜けず苦しむ人を見てきた私としては、依存にあまり良いイメージをもっていない。果たして「依存」は良いこと、それとも悪いことなのか。立ち返って考えた。


そもそも依存とは

本来の「依存」の意味

「ある者の存在又は性質が、他の者の存在性質に依って制約さるる関係を言い表はす語」1936年(昭和11年)の百科事典には、こう記されていた。

つまり、それがないと存在できない「関係性」を表す言葉。
だから一人では築けないように思いがちだが、その対象が物や事である場合も多い。強迫性障害という診断がそれにあたると思う。

例えば、強迫性障害(実際のケースに基づいた実話1)。
かなり重い強迫性障害の男性は、一日に数回奇声を発していた。時間も場所も関係なく、強いストレスを感じた時(その要因は様々)に精神のバランスを保つために叫ぶ。もう十数年、それをしないと自分は存在できないと思っているので、やめられない。そして当然ながら、日常生活に様々な制約を及ぼしていた。診断名は依存症ではなく、強迫性障害。※Drによっても診断名が違うこともある。

もう一例、リストカット(実際のケースに基づいた実話2)。
女性が多いと言われるこの行為。リストカットに限らず、抜毛や絶食(拒食や断食ではなく、何かミスをした時などに自分で自分を戒めるために行う)など、自分が生きていることを確かめる行為がやめられない人が意外と多い。実際これらは奥が深く簡単に語れることではないので、この程度に留めるが、これらも行為に依存していて、かつ自ら何らかの制約を課している。

昭和初期の意味からすると
本来「依存」とはこういう時に使う言葉だったのだと思う。そもそも心理学用語だったはずで、昔の日本にはなかった概念だったと記憶しているが、そこはもう一度詳しく調べてみようと思う。

ちなみに彼らの診断名は依存症ではなく、強迫神経症。
その行為を行わないと不安で押し潰されそうになる。自分の存在が感じられないなど、行為に「依存」している状態。※Drによって診断名が異なることや、見立てが異なることも割とあるので参考程度に留めてほしい。


自立は依存先を増やすことなのか?

ところが最近「依存」だけでなく
「自立とは依存先を増やすこと」なる流れが強くなりつつあって、意味はそのままなのに、解釈論で使いかたが変わっている。それも「自立」という「依存」の対義語が使われているという矛盾。

「自立」とは
・他への従属から離れて独り立ちする
・他からの支配や助力を受けずに存在する
・自分以外のものの助けや支配を受けず、自力で物事をやっていくこと

そもそも「自立」して一人で生きてる人と言えば、アルプスの少女ハイジのオンジしか思い浮かばない。人は誰しも、何かしら誰かに頼り頼られ、気づかないうちに支えあって生きているものではないだろうか。

でもそれは「依存」ではなく「お互いさま」の関係性のはず。
夫婦や同僚、恋人、友人、仲間、ご近所といった関係性はそれぞれだとしても、その関係性がなくなると自分が存在できなくなるわけではない。

その関係性が精神的な一定のラインを超えた時
制約が課されることになり、相互に「依存心」が発生する。
社会や組織、家族などでもこれはよく起こる。

そこに属していないと生きられない。
そう思い込むこんでしまうことで無意識に自分に制約を課し、不条理なことも受入れ従属する。結果、無理難題を言う人や、裸なのにズル賢い王様やその臣下たちを支える共依存者になってしまう。

そして裸なのにズル賢い王様や臣下たちは
そんな心理を利用して言うことをきかせるために、詭弁で本質から視点と論点をずらしスケープゴートを生んでは消すを繰り返す。なぜなら彼らは、共依存者がいないと存在できないことを誰よりわかっているからだ。

つまり彼らは共依存者に依存しているわけで
支えてくれる共依存者がいなければ、自分たちが存在しえないことを誰よりよくわかっている。そんな彼ら誰より弱いのかもしれない。


相互依存がもたらすもの

大正生まれの社会心理学者辻正三氏は以前
われわれは、人と人とのかかわり合いの網目(あみめ)としての社会のなかに生きているのである。全面的な依存から出発した人間の成長した姿は、「ひとり立ち」ではなく、必要に応じ状況に応じて、お互いに依存しあう相互依存の状態であると解説していた。

そしてこれは今でも、「依存」で検索すると意味や使い方としてあがってくる。恐らくこの解釈の基、自立とは依存先を増やすことと言われるようになったのかもしれないが、大正2年生まれの人は、男性はかくあるべき、女性はかくあるべきという概念のもと生きていたと思われる。

女性は男性の収入に頼って生きていたであろうし、男性は食事や身の回りのことを女性に頼っていた時代。核家族でもなく、ご近所との繋がりもあり、意識せずとも頼って頼られて、支え合う共同体が残っていたのではないだろうか。そんなバックグラウンドでの「依存」「相互依存」の解釈は、今と異なっていて当然だ。

それを引用したかどうかは不明だが、水原氏とIRカジノの件で、アディクションが再び注目を集めた今、もう一度日本語の意味を正しく理解しないと依存は悪くないという方向へ進みそうな予感がする。「相互依存」と言えば、なんとなく聞こえはいいかもしれないが、本来の「依存」の意味と実際ケースを担当した経験と、組織の調整をはかってきた経験からすると、関係性に関わらず多少なりとも「支配する側される側」「強者と弱者」が存在する。程度の差はあれSMの主従関係と近いか同じ。心理的に通ずるものがある。

依存関係で成り立つ社会より
一定の距離感をもって、助けあい、協力しあって成り立つ社会、世界のほうが心地いいはずなのになぜか人は群れたがる。社会的不安が高まれば高まるほど、その傾向は強くなる。群れるほど依存傾向は強くなり、群れるほど謎ルール的な制約は増える。

自分たちで自分たちの首を絞めるようなダイナミズムに、流されないようにしなければいけないなと強く思う今日この頃。



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