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【読書の基準】人はどのようにして本を選ぶのか?@橋本治

誰しもが、
偏食というか、
偏毒ではないでしょうか?

私は恥ずいですが、
普通に文学史的な基準で
読んてきた方ですね。

ただ、そのわりに
ほとんど?全く?
関心がない文豪がいます。

田山花袋、
島崎藤村、
志賀直哉、
武者小路実篤、
といった自然主義文学や
白樺派文学だ。

明治文学の研究や、
大正文学の研究に
関わる訳でもない限り、
どうも、関心が湧かない。

まずは、志賀直哉。
彼は単に自分の気分や機嫌を
書き表わしただけに過ぎない…
と感じる。

そんな、他人のおっさんの
機嫌の良さ、悪さの変遷を読んで
何の得があるんだろう、
と、利己的に考えてしまう。

島崎藤村は、
ものすごいナルシストだ。
ナルシストが、
正統派文学者として開花した
珍しいタイプ、幸運なタイプだ。
ただし、
晩年の『夜明け前』だけは
それまでの自己正当化を恥じ、
反省した上で描いた、
唯一の名作と思われる。

さて、そんなこんなを
考えながら、
ちびちび、読書していたら、
橋本治さんがこんなことを
書いていました。

「二〇〇一年の終わり−−『三島由紀夫とはなにものだったのか』を書き上げてしばらくした時、『小林秀雄』を思った。三島由紀夫をやっちゃったら、次は小林秀雄か、志賀直哉か、島崎藤村かなと思って、やっぱり小林秀雄だろうなと、そんな風に思った…。
…中略…
ずっと昔に別れてしまった近代という友を、あるいは友の中にいた近代を思った。だから日本の近代を代表するような人物の名が自然と思い出された。
志賀直哉って何者なんだろう?今ならきちんと分かるかもしれない。
それなら、島崎藤村だって分かるかもしれないと思った。
夏目漱石とか森鴎外という名前はいっこうに浮かばない。それはもう、なんとなく知っているのである。
私は自分とはまったく関係ない『他人の近代』を知りたいと思った。志賀直哉も島崎藤村も、私とはまったく関係ない。
そう思って、しかし私は、でも作家じゃないなと思った。
小説を書かせるもの、自分とは関係のない近代というものの核となるような、近代の考え方が知りたいと思った。それこそが自分から最も遠いものである。だからこそ、私は一番最初に小林秀雄を思ったのだろう」。

長々と引用しました。
これは、橋本治
『小林秀雄という恵み』の冒頭。

橋本治という作家の、
ものを考え、取り組む時の
開始時の一端が
ここによく表れています。 

とりわけ、近代とは何かについて
ずっと関心が高かった橋本治らしい、
問題意識のためでしょう。

そんな橋本にとって必要だったのは、
小説を書かせる何か、
あるいは、
近代とは何かについて
解きあかせるカギになる何かが
必要だったのでしょう。

それに近づくには、
志賀直哉でもなく、
島崎藤村でもなく、
小林秀雄に目をつけた、
という橋本治の、上記の文章は
とてもよくわかる気がするのです。

もう志賀直哉や島崎藤村らが
抱えていた問題提議や違和感は
もはや、今では
解決済みになっているというか、
今では必要性が
なくなっているというべきか。

小林秀雄には、
問題提議や違和感は
今でもまだ有効だから、
まだ小林の本が読まれるのでしょう。

古びるか?
古びないか?の差は
そんなところにあるのでしょう。

もちろん、
読書は個人の自由であり、
現代にあって、
食事と読書はまるごと
個人の自由の裁量で
行なわれるべきですから、
相性として
志賀直哉にハマるならば
志賀直哉をもっと読んでいいし、
島崎藤村をもっと読んでいい。

私も時々、
志賀直哉の短編を
オヤツでお茶をチビチビ飲むように
チビチビ読んでは、
文章がまるで、
バッハの平均律の曲みたいに
キレイに作られていることに
感動しています。

でも、できるなら、
今も有効な問題提議を抱えた
作家の作品を読んでは
自分の中にも、そうした感覚を
育てたいなあ、と思っています。

橋本治にはいつだって、
何かを教わることがある。
ありがたい、奇特なお兄さん的存在だ。

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