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【貧困】なぜだろう、貧困は無くならない?

貧しい街に惹かれる時期?がある。。。
そんなことって、ありませんか?

私の大学時代の仲間は
大学卒業を待たずに、
東京の山谷に飛び込んで、
その実態をルポルタージュに
するんだと行った人がいます。

私はそこまでの勇気はなかったけれど、
不条理な?経済的貧困の結晶みたいな
東京の山谷や
大阪の西成区を
どうしても自分の目で見たい、
確かめたい、見極めたい、
人々をよく知りたい、
最後には、可能なら力にもなりたい。
そう一瞬、チラッとでも思うことは
若い時にはよくあるのでは?

実際、そんな思いを持って
今も救済活動をしている人はいますね。
多くないかもしれないけど、
いることはいる。
ドキュメント番組で見かけます。

最近、岩波書店が営む本屋で
棚を眺めていたら、
『パリ・ロンドン放浪記』が
目にはいりました。
書いたのは、ジョージ・オーウェル、
1933年発行。
これがオーウェルのデビュー作。

その棚の近くに、
『どん底の人びと ロンドン1902』が。
著者は、ジャック・ロンドン
1903年発行。
ジャック・ロンドンは、
狼や大自然をテーマにした作家として
日本では定着していますよね。
『白い牙』『野生の叫び声』など。
でも、同時に社会主義者でも
あったんですよね。

それから、フランスの哲学者で、
信仰の人でもあった
シモーヌ・ヴェイユの『工場日記』。
(こちらだけは、講談社学術文庫)

ヴェイユが工場で働き、寮に住んだのは、
1934~1935年ですが、
書いたのはずっと後のよう。
年齢的には24~25歳でした。
多感で、かつ、たくましい頃。
でも、彼女は、体が非常に弱い体質で、
工場労働の日々は大変だったようです。

これら3冊は、
みな著者は労働者ではないですが、
しっかりそこに溶け込もうとしています。

単に物見遊山で行くでもなく、
貧民街の人びとを見たい、
知りたい、
理解したい!
そういう動機から
そうした街に移り住み、
働き、食べ、感じ、願い、
語りあったことの記録です。

マルクス主義、
社会主義、
社会改良主義、
ルポルタージュの可能性、
そうしたことが混然一体となって
20世紀前半に生きた作家や哲学者を
パリやロンドンの貧民街に
駆り立てたんでしょうか。

20世紀は、
急遽、資本家という、
成り上がり層が社会経済で
大きな力をもった時代。
反対に、
大勢の貧民が生まれてしまった時代。

うん?
あれ?

今だって、貧困層、女子の貧困、
といったテーマの本がたくさん出てる。
作家のルポというよりは、
社会学者が、聞き取り調査を行って、
実態を追及しているという本が
多い印象です。

本屋大賞ノンフィクション賞2021の
『海をあげる』を書いた
上間陽子のデビュー作
『裸足で逃げる』は、 
沖縄の若い女性たちの苦しみの
迫真に迫った、物悲しい本でした。

私たち人間は、
この「貧しさ」から
関心を失うことはないよう、
出来ているのでしょう。

自分の人生をかけて
わざわざ貧民区に行って
何かをつかもう、問いかけようとする…。
これはもう「祈り」のような
行動にしか思えないですね。

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