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【少女の告白】今なら、これは性的暴行事件ですね?

いつもの通り座敷に上って父は
ビールを飲み、私達は「じゃんぼ」の
焼き上るのを待っていた。
おとなにとって景色は目の保養だが、
子供にとっては退屈でしかない。
小学校四年生だった私は、
一人で靴をはき、おもてへ遊びに出た。

貸席と貸席の間はおとな一人がやっと
通れるほどの間で建っている。
その時、海の方から、一人の漁師が
上ってきた。下帯一本の裸で、
すき間いっぱいになって歩いてきた。
よけようとして板にはりついた時、
ふっとお正月のお飾りにつかう
「ほんだわら」と同じ匂いだなと思った。
そして、次の瞬間、洋服の上から
体をさぐられていた。
漁師は私に軽いいたずらをしたのである。
声も出ないで立ちすくんだ時、父の
大きな声が聞えた。漁師はそのまま
行ってしまった。
私はしばらくの間、板によりかかって
立っていた。
私はすぐには座敷に戻らず、
いったん表へ出て井戸で手を洗った。
ごしごし手を洗ってポケットから
ハンカチを出して拭いた。
母の字で「向田邦子」と書かれた墨の字が、
水をくぐって薄くなっていた。
初めて自分の名前を知らされたような、
不思議な気持があった。
ゆっくりとハンカチをたたみ、
今度はぐるりと廻って座敷にもどった。
さっきのことは誰にもいわなかった。


これは、昭和を代表する作家の
向田邦子さんのエッセイ
「細長い海」の一部分です。
『父の詫び状』(文春文庫)で読めます。

8歳の少女が海辺で、
がたいの大きな漁師に
性的な暴行を浮けた「告白」です。
間一髪な時に、お父さんの声で
漁師から解放されましたが、
お父さんの声がなかったら、
被害はもっと酷くなったでしょう。
慌てて水で手を洗った描写。
ハンカチの自分の名前で
我にかえる描写。
誰にもいわなかったという事実。

1929年生まれの向田さんが
小学校四年生というと、
1937年、昭和12年。
日本は日中戦争を始めた頃。

いや、時代は関係ないですね。
いかに、がたいの大きな大人が
やすやすと、少女にいたずらを
いや「体をさぐられていた」とは
いたずらではないことをしてる。
そうして、少女はどんなに
衝撃と混乱をうけたでしょうか?
しかも、誰にも言えなかったか。
それがよく分かります。

セクハラ、性的いたずら、いや、
痴漢、性的暴行ですね?

それはきっとこの時以外にも
何度か、あったでしょうか。
それはまた、向田さんだけでは
なかったでしょうか。

約30年ぶりにこのエッセイを読み、
昔も印象的でしたが、
今の感覚で読むと、
この漁師がしたのは犯罪ですね。

一人の勝ち気で聡明な少女が
どれくらい衝撃を受けたか?
30数年後になっても、こうして
克明に文章に出来ることから
酷かったことが分かります。

心理描写が上手すぎて
読みいってしまいますが、
これは痴漢を受けた「告白」です。
被害者としての言い分を
書き連ねていないのは、
まだまだ、女性の立場が
低かった昭和時代に書かれた
エッセイだからでしょうか。
それにしても、向田さんはエッセイが
恐ろしいくらいに上手すぎる!

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