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【文学】近代小説と、現代小説は全然べつものか?

「近代小説は終わった」という話は
もう定着してきた感がありますね。

小説には2種類ありますよね。
近代小説と、現代小説です。

近代小説は世界を席巻しました。
19世紀、20世紀の文学は
みな近代小説ですよね。
これが余りに凄かったから、
今も、小説好きや
小説創作好きがたくさんいる訳で。

近代以前の、能や狂言の創作に
邁進する人口の数が
圧倒的に少ないことを考えると、
小説創作人口はまだまだ凄いですね。

さて、近代小説と現代小説は、
何が分かれ目なのかというと、
シンプルに、
書いた人が近代人か?現代人か?
でしょうね。

夏目漱石は近代人です。
だから、漱石の作品は近代小説です。

金原ひとみは現代人です。
だから金原ひとみの作品は現代小説です。

ところで、近代はいつ位まで
続いたのでしょう。

20世紀の、戦争が終わり、
その混乱がやや落ち着く
1960年代まではまだ近代が
続いていたような、
歴史的にはそんな印象です。

その後、70年代以降、徐々に
近代が終わっていきます。 
日本に関しては80年代は、
近代生活から、現代生活に
入れ代わっていきました。

そんな風に徐々に始まる現代で、
書かれていた小説が現代小説となる、
まあ、ざっくり、そう考えてみます。

グレーな区分けになるので、
はっきりした言い方はできませんが、
70年代に活躍した中上健次は、
現代小説家の先駆けであり、
また、最後の近代小説作家でした。

その後に台頭した村上春樹や村上龍は
あきらかに、近代とは訣別できた
現代小説ですね。

ただ、例外もあります。
私小説を貫いた西村賢太は、
現代に生きて、
現代に書いていましたが、
作品は戦前の私小説の気配がして、
近代小説と呼べるものでした。

さて、その区別はさておき、
私たちの本棚には、
たとえば、
夏目漱石やトルストイや太宰治や
綿矢りさや小川洋子が
混ざっています。

国語の教科書では、
芥川龍之介や石川啄木を紹介され、
「小説」だとまず学びますが、
私たち現代人は、
夏目漱石や島崎藤村を
お手本にしようとしても無理があります。
精神構造がかなり違うからです。

海外小説は、
まずドストエフスキーや
バルザックやディケンズなどで
海外小説に親しみだし、
サルトルやオースターを後から、
同じジャンルのものとして
親しんでいくのが定番ですね。

でも、
近代と現代は大きな違いがあります。
余り普段は意識しませんが、
古代と中世と近代と現代が
それぞれ、とても違うように、
近代と現代はかなり違います。

それなのに、私たちは、
スタンダールを読んだ後、
同じ精神体勢で、
平野啓一郎を読んでしまいます。

これって、
どちらも現代語で書かれてるから
いっしょくたにしてるだけですね。

戦前の食べ物と
最近の食べ物を同じトレーに
入れているようなものです。

バラエティ豊かでいいことじゃないか、
とも思いますが、
中身を支える精神の背骨は
まるで違います。

近代小説は、
もっと遠くのものとして、
読むべきかもしれません。

『嵐が丘』や『明暗』を
『ノルウェイの森』と
同じように読むのでは、
ちょっと、ズレてしまう…。

近代小説で出てくる「わたし」は
現代小説の「わたし」と
意味やニュアンスが微妙に違います。
こうした違いが、一作品で何百個も
積み重なったら、相当な違いになる。

近代小説を読む時は、
現代小説を読む時より、
タイムトリップした気持ちになって、
味わう方が、
正確な味になるかもしれません。

ちょっとだけでもサイズのちがう
ハイヒールも、いざ歩いたら
ずいぶん違いますものね。

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