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【読書】私小説家の「功罪」について考えてみる…

太宰治の功罪について考えてみたい。
太宰治について考える時、
まず浮かぶのは、
私小説を広め人気にした功罪。
もうひとつは、
違和感を売りにした功罪。
違和感によって「マイノリティ」同士で
盛り上がれる文化を作ったことでしょう。

まずは、私小説作家として。
純粋には、太宰は私小説作家では
ありません。これはファンが勝手に
そう位置づけしてしまったんです。
『斜陽』も『人間失格』も
太宰のリアル生活をもとにして
書かれたわけでは全然ないんです。
『斜陽』は当時、愛人だった
太田静子という女性の日記を巧みに
借り受け、モデルにしました。

短い手記のようなもので
まさに自分自身の体験を書いた
作品がありますが、
それらは隠れた名作ですし、
「物語」にはなってない。
あくまで手記です。
初期の『晩年』などがむしろ
自分の生活や思いを切々と
書いた私小説でしょうか。

中期の旅行記『津軽』や
随筆『富嶽百景』『新樹の言葉』
『東京八景』『服装について』など
10頁前後の小品は読み心地が良い。

でも今は「太宰=私小説作家」だと
当たり前になってしまった…。
ここは、むしろ、その経緯を
追っていった方が、太宰作品の
特徴に迫れるかもしません。

ところで、私小説とは何でしょうか?
それは、自分の生活を小説風に
仕立てた作品を書いたから?
と思われがちですが、
そこには哀しいくらい虚栄ゆえの
作為が隠されています。

私小説の元祖は、田山花袋が書いた
モテなくて情けない男(自分)の
日常をじめっと描いた「蒲団」が
それでしょうか?

『蒲団』が出たのは1908年。明治41年。
日露戦争に勝利し、国際的な地位を
高めつつあった日本。
世の男のほとんどは政治や経済や戦争の
実利的な価値観で占有されてました。

明治政府が始めた「富国強兵」が
実りつつあった時代。
誰もが政治や戦争の話で夢中な時、
へそまがりなタイプの文学者たちは、
あえて「重大ではない」
「冴えない日常」こそ文学の仕事だと
考えました。
政治や経済の話に夢中な世間に
冷や水をかけようと必死でした。

その後、大正時代を経て、
昭和になると、
社会はますます硬直化しました。

その一方、マルクス主義文学も
海外から入って広まりました。
権力や政府を批判する狙いをもった
「硬い」文学です。

そこで、へそ曲がりな文学者は
「富国強兵」な動きに
一矢報いたい狙いから、
あえて、情けない自分の日常を
さして起承転結もない毎日を、
切々と描くことで、芸術家として、
また創作家として独自の立場を
持とうとしました。

あくまで、堅物たちへの
反抗だったのが私小説です。

自分には誇れる地位もなく、
妻帯ながら女性の弟子に心ときめかせ、
その寝巻きの匂いを嗅いでしまった、
そんな自分をあえて書くんです。

欧米と戦うゾとか、
政党政治を打ち立てるぞなんて、
四角四面な硬い話に
夢中になってた世の中を
あっと言わせたかったんです。

まあ、虚栄心だらけ。
ありのままに自分を描いた?
それは私小説側が後から
自分たちにつけた詐称ですね(笑)。
本心は虚栄心まみれだった訳です。

私のある側面を語ることで、
私の他の側面はみな隠れてしまう。
語ることで裏側を隠してしまうのが
私小説の恐ろしさです。

私小説とは、私を語りながら、
私を隠し、しかも虚栄心を盛り込む
メディアなんですね。
鵜呑みにしてはいけません。

私小説家としては、
志賀直哉、島村藤村、梶井基次郎、
嘉村礒多、葛西善蔵、室生犀星、
広津和郎、佐藤春夫、中野重治、
林芙美子、壇一雄、などなど。

この人たちは構成のしっかりした、
伽藍のような立体的なドラマ性の高い
物語はほとんど書かれなかった…。
ディケンズやモームのような作家が
日本に誕生しなかったのは、
私小説があまりに流行りすぎたから。
私小説が日本を包んでなかったら、
現代文学は今とは全然ちがうものに
なっていたでしょうね?

また、話が逸れました。
それに話が長くなりましたね。

それにしても、私は私小説には
つい血が熱くなってしまうんです。
18、19才で太宰病にかかった怨念が
まだ、きちんとなくなってないよう(笑)。
太宰治の「功罪」については
また、別の機会にさせて下さい。


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