見出し画像

私の推し『蒼天航路』勝手に解説② 「馬超」と「許楮」そして曹操の問い

潼関の戦い

 馬超・韓遂連合軍が曹操軍と対決。

 馬超は曹操を見つける。一気に襲い掛かる。

 曹操は許楮の制止をきかず、「馬超」を計ろうとする。

 「ただ一個の憎悪で天下は変わるのか?」

しかし、馬超は何も答えない。

 「答えぬかっ!」

曹操の予想に反して何も答えない馬超。これはなぜなのだろうか。

 その答えは、

 何も考えていないから

 である。

 馬超は漢の大地に生まれた。そして、漢の国に生きてきた。しかし、曹操がそれを破壊し、傀儡の天子を戴いて蹂躙している。そのため、曹操に対しての純粋な憎悪を抱いたのだ。馬超が曹操に乱を起こしたのはこれが原因であった。馬超にとっては、曹操許すまじのただ一つが目標だった。

 許楮は一目でこういうやつであることを見抜いた。だから、曹操が行う何の問いかけも意味がないのである。曹操が馬超に切られ、身は勢いで河に投げ出された。馬超はなおも執拗に曹操を殺そうと迫る。許楮はそれを制止し、馬超を気絶させるが、馬超はすぐに意識を取り戻し、許楮の背後から襲う。

 許楮の一言。

 「おめえは、しつこいだけだあーーーーっ!」

 今回に限っては、許楮の方が相手のことをよく見抜いていた。馬超は何も考えていない。ただ、曹操に対する憎悪のみ、なのである。

 私たちも、気持ちがわかる範囲で考えてみたい。私たちは、日本という国で生まれた。しかし、例えばだが、今中国が戦争への機運を高めている。フィリピンの海域に人工島を立てたり、漁船に嫌がらせをしまくっている。

 もし将来、中国が日本を占拠し、じわじわと侵略し始めてきたとすればどうだろう?あなたたちは何も感じないだろうか?

 馬超が曹操に抱いた気持ちは、これと似たようなものである。

 「ひとたび穿たれた天は繕うことができません。」

 馬超にとって、漢は完全だった。しかし、綺麗な水に一滴の濁った水が入ると、もう元に戻らなくなってしまうように、完全なものは、もう完全なものではなくなってしまったのだ。馬超はとても純粋だった。そのために、不純だとみなした曹操が許せなかったのである。

 しかし、それは曹操からすれば、ただの青二才の感情爆発みたいなものだった。なぜならば、こういうことである。

 ただ一個の憎悪で天下は変わるのか?という問いの意味・・・

「私には、お前がただの憎悪(=ここでは武)のみでこの天下を変えようとしているように見える。しかし、国というのは、文というものが下地になってこそ成り立つものだ。私にはお前の底にある文というものがまるで見えないが、一体どういうことだろうか?」

 馬超は問いに答えない。そんなことどうでもいいというか、考えることさえなかったのである。ただ、国を汚している曹操に対する怒りと憎しみが根底であった。

 曹操の問いはさらに意味を持つ。
 
 「私を憎むのはいい。私を憎むのはいいが、私を倒した後、お前はこの中国をどうしていきたいのだ?この中国を、どのような国に変えたいのだ?それを私に示してみろ。」

 ちょうど、日本が中国に占領され始めるとすると、私たちは中国許すまじ・・・という心に支配されるかもしれない。その時、中国に対して反発をするだろう。すると、中国からこういう問いを出されたら、一体何と答えるか?

 「私たちを憎むのはいい。私たちを憎むのはいいが、我々をこの日本から追い出した後、お前たちはこの日本をどうしていきたいのだ?それを私たちに示してみろ。」

 と聞かれた時、何か答えることはできるだろうか?

 平和にしたいとか、戦争を無くしたいとか・・・誰にだって言えるきれいごとはいくらでもある。しかし、今の日本を見てみると、私たちに日本という国自体をとてもよくすることができるとは思えない。人によっては2030年までには財政破綻する、という声まで出ているくらいなのだ。問題は金だけでなく、道徳的な荒廃も強い。結局中国に占領されたとして、彼らを追い出しても、また元に戻るだけなのではないだろうか?いや、むしろもっと悪くなるだけなのではないだろうか?と曹操は言っているだけなのである。

 許楮の言う、お前はしつこいだけ、という文句は、お前は空っぽだ。と言われているのと同じだ。ただ反抗しているだけ。ただむかつくやつを攻撃しているだけで、この国の未来など、何も考えていない。もしお前が中国を治めることになったとしても、却ってこの中国は荒れてしまうだけだろう・・・。ということである。

 曹操が見抜けなかったのはそこである。ここまで自分に反乱をしてくるのだから、きっと私のせいで、自分達がこの中国に敷きたい政治、統治ができないのだろう。では一体それはどのような考えなのか?そこに大きな興味を持ったのである。しかし、何もなかったのだ。曹操はそれを見抜けなかったことが不測の事態であった。

 戦争というものは、常に政治と結びつけて考えるのが曹操である。しかし、戦争を戦争だけ、さらには、一個対一個の感情のぶつかり合いどまりでしか物事を考えていないような馬超の行動は、ガキなのだ。

 涼州側からすれば、義憤。純粋。良く言えばそうだが、曹操を殺せばいい、というのは、殺した先のことを考えていないのと同じである。

 「ただ、叛くがゆえに我あり」

 これが馬超だ。

 その後、徐晃からもこのように言われてしまう。

 「人を顧みぬ刃は、武にあらず」

 武は文の上にあってこそ意味があるもの。文のない武は、ただの暴力なのだ。

 

 


 

 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?