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理不尽なんてものは存在するのか?

理不尽を受け入れる、受け流すことも時には必要だ
理不尽には断固として戦うべきだ
みたいな大人の理屈がありますが、

「理不尽」ってなんだろう。

「理不尽」という概念?尺度?評価は存在するのか?
それは果たして万人共通・不変のものなのだろうか?
と、ふと考えたときに
どうもそういうものでは無さそうだと思うのです。

り‐ふじん【理不尽】
[名・形動]道理をつくさないこと。道理に合わないこと。また、そのさま。「―な要求」「―な扱い」

どう‐り〔ダウ‐〕【道理】 
[名・形動]
1 物事の正しいすじみち。また、人として行うべき正しい道。ことわり。「―をわきまえる」「―に外れた行為」
2 すじが通っていること。正論であること。また、そのさま。「言われてみれば―な話」

ともにgoo国語辞書より引用

物事の正しいすじみちや、人として行うべき正しい道に
合わない、つくさないことが理不尽だとするのなら、
その正しさとは何か?
我々が道理と期待しているものは万人に共通で、不変な正しさを持っているのか。

大多数の人が支持するものが正しさなのだとすると、
例えばこういうのはどうだろうか。

駅の改札の、切符の読み取り口は、進入通路の右側にある。
これは右利きの人にとっては具合が良い位置だ。
一方で左利きの人にとっては使い勝手が悪い位置にある。
果たして左利きの人は、この読み取り口の位置を「理不尽だ」と
思ってはいけないのだろうか。
道理にかなっていると思わなくてはいけないのだろうか。

それでは右利きにも左利きにも優しく、進入通路の
左右両側で読み取れる改札を作ってみるというのはどうだろうか。
とすると、今度は自分の進入通路ではなく
間違って隣の改札に読み取らせてしまうかもしれない。
その間違いを減らして幅広の読み取り機を作ろうとすると
今度は駅構内の幅に対する改札の数が減ってしまう。
人の流れが悪くなり、混雑を産んでしまうかもしれない。

それは道理にかなっていると、万人が支持できる判断だろうかというと
どうも違う気がする。
道理を目指しているはずが、万人共通のベターに辿り着けないまま
理に適っていない、理不尽な状態に陥ってしまっているような話は
様々な場面で遭遇する。

とすると、そもそも道理や理不尽なるものを
客観的、絶対的に指し示すことは不可能で
そもそもそんなものは存在しないと思わざるを得ない。

無理難題を要求してくる取引先も
朝令暮改してくる上司も
気まぐれに不平不満をぶつけてくるパートナーも
自分にとっては理不尽に感じるかもしれないが
相手にとっては正当だと思うロジックをもって
そう接しているかもしれない。

さらに言ってしまえば
それが「無理難題」「朝令暮改」「気まぐれ」と思うかは
自分だけかもしれない。
隣の人はそう思っていないかもしれない。
。。。

物事の感じ方や、感情のコントロール力、
その時点で抱えている悩みやストレスの環境、
それは人の数だけ、瞬間の数だけ異なるのだから、
その個人差を無視して
「こう振る舞わなくてはならない」
「これが万人によっての正しさだ」という
考え方は、万物普遍の正しさかというと、
それは誰が判断できるのだろうか?

(ひとつ。ハラスメントや犯罪行為はNGといえる。
なぜなら法律や規則といったルールに違反しているから。
そして違反行為を行う人間は社会からの退場を余儀なくされる。
よってもって、その社会によって作られたとはいえタブーであるし、
社会に属する人間として理にかなっている行為とはいえない。)

そういうルール違反のようなケースを除いた場合に
人間関係における道理だとか、理不尽だというのは
共通の概念、尺度、実存として存在しているものではなくて、
あくまでも個々人の感じ方、主観、
言ってしまえば「好き」「嫌い」の類でしかないのではないか。

だから理不尽なんて気にするな、我慢しろとか、
そう言いたいのではなくて、むしろ逆で、
理不尽という概念というか、自己の感覚というのは
「嫌い」と同種の感情であるのだから
どうしても嫌いなことはNoといって
距離をとってしまえばいいのではないか。
それが長い目で見たときにヘルシーなのではないか、
という話。

また「理不尽だ」とかって大衆の声、天の声っぽく言うのではなくて
「そういうの嫌いです」と言ってしまったほうが
お互いにコミュニケーションとしてわかりやすいと思うし
理に適ってるんじゃないかな。

いや違った、僕は「そういう考え方、接し方のほうが好き」です。

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