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8月に想う

8月はやはり戦争について考えます。
広島、長崎、そしてもうすぐ終戦記念日。
小さい頃、戦争は世間でも"絶対悪"だった。
はだしのゲンをはじめ漫画、絵本、テレビ番組でも映画でもそうだったし、祖父の話、戦争孤児だったという父の友人もいた。学校でも戦争講和は子どもながらに強烈な印象を受けた。
年に一、ニ度の演劇鑑賞会も演目は戦争をテーマにしたものだった。アメリカ映画も冷戦下ですら核戦争をテーマにした作品が話題となりテレビの洋画劇場で放送されていた。その恐ろしさ、不条理さは僕のトラウマになった。
もう少し大きくなった頃、プラトゥーン、ハンバーガーヒル、フルメタルジャケットなどベトナム戦争を題材にした映画も沢山作られて、世界的にも反戦、反核、という概念は溢れ返り僕にとって揺るがない、当たり前の倫理観の基礎の様なものになった。エンタメ作品、例えばロッキー4なども最後に世界に向けたメッセージは争いでは無く平和だった。
月日が経ち、自分はもうすぐ50歳、長男ももう少しで成人、という今現在、
この"戦争"という言葉の位置付けは日本社会、そして取り巻く世界に於いて明らかに少し違っていて、それがとても気味が悪い。
僕は戦争は最悪の選択だと信じて揺るがない。
そしてたった1人の悪の帝王、の様なリーダーの意志だけで起こせる事ではないし、また続けられるものでも無いと思っている。
戦争は戦争を選ぶ、求める大きな力が働いて初めて起こる。戦争が続くことも同じだ。
戦争を続けたい、その大きな力があるのだと思う。
それらはもしかしたら政治家や政治家と結びつく強大な経済力を持つ企業やそれを牛耳る投資家などかも知れない。そんな力が幾つも束になり縄の様により合わされ太いロープになっている様なイメージだろうか。わからない。その人たちですら自分でも知らずにそのロープを形成する繊維の一本になってしまっただけなのかも知れない。


僕の大切な息子たちが戦争によって奪われてしまうこと、この世に於いて最悪のこと。
その瞬間にこの世界は僕の足元から崩れ落ちるであろう、最低、最悪の状況。

かつてのこの国で一体どれだけの親がそれを経験したであろうか。
およそ考えられる最悪な我が子との別れを
思い浮かべてみる。

どうだろうか。

それでもまだ戦争を「仕方ないこと」
「正義の戦い」として肯定出来るのか。

そんな選択しか出来ない政治家はまだ
僕らのリーダーと呼べるのか。




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