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チカムリオ(その1)


まだ夜明け前なので、辺りに人の気配は感じられない。

車の音も時折遠方からかすかに聞こえてくる程度だ。

公園の中は濃い霧に包まれ、街灯の光が淡く漂っている。

私はベンチに腰掛けたまま何度かくしゃみをした。こめかみのあたりが鈍く痛む。
 昨夜はずいぶん酒を飲んだ。つい今しがたまで、ここに腰掛けたまま、しばらく寝込んでしまったようだ。

どうやってここにたどり着いたのだろう?まるで記憶がない。

しかし、どうしてここに来たのかは、わかっている。

私は腕時計に目をやった。4時少し前。

では、あと数分待てばよいのだ。

もう少しで、私のこれまでの人生を精算するときがやってくる。少々大袈裟な言い方かもしれないが・・・。

だがしかし、本当にそれはやってくるのだろうか。

私は背広のポケットから皺の寄ったタバコを取り出した。百円ライターの炎が揺れ、束の間の暖かさが手のひらに残った。

考えてみれば馬鹿げた話だ。しかし、今の私がそれにすがりついているのも事実なのだ。
 まあいい。すぐにわかるさ。このタバコを吸い終わらぬうちにも。

私は少しの間目を閉じて、いつもの習性でこの場の様子を心の中で文字にしようと試みた。

『春とはいえ、夜明け前の公園は寒々しかった。しかも彼は今まで酔いつぶれてベンチで眠りこけていたのだ。辺りには濃い霧が漂い、淡い街灯の明かりが・・・寒々しいというのは当たり前すぎるかな』

そこまで考えて私はやめた。

二日酔いの頭で良い文句が浮かぶわけはない。酒を飲んでいないときでさえ自信がないのだ。何しろ私は売れない小説家なのだから。

この”小説家”という言葉が文章を書くことによって生計を立てることを意味するのなら、私にはそう名乗る資格すらないかもしれない。
 作家と称し、ごくたまに短文を、しかも小説でもエッセイでもなく、取るに足らないものを書いて煙草銭にありつき、定職にもつかずにぶらぶらしている中年男といったところだ。

若く自信に満ちていた頃はまだよかった。自分は孤高の天才なのだという、甘美な陶酔だけで生きてゆくことができたから。
 しかし、やがて女性と一緒に暮らすようになり、日々の生活に追われ始めた頃から、自信が不安に、情熱が焦燥へと変化していった。

もっとも、そのような状況は、ある意味では私がそうなることを望んだのだ。私小説の世界を実際に体験してギリギリの状況に自分を置くことで、最高の文章を創り出す力を得ようと考えたのである。
 そしてそのために周囲の反対を押し切って大学を中退し、先の見えない生活に身を投じたのだ。

何と向こう見ずなことをしてしまったのだろう。

しかしその頃の私にしてみれば、それらの行動は決して向こう見ずではなかった。私の心の中には、あの体験が深く根を下ろしていたからなのだ。

そう、私には自分自身の輝かしい未来が、途中までだが見えていたはずだった。そして・・・。

日々の生活に疲れ、自分の生き方に対する自信に刃こぼれをきたし始めた今、私はもう一度あの体験を再現することによって、消えかけた情熱の炎を再び燃やしたいと切望するのだ。

そしてもう一つ。

あのとき見ることができなかった”その後の私”を見ることを。

それが輝ける成功者としての自分ならなおのこと、たとえ絶望の淵に立つ姿であっても?いや、もしもそうなら私は一体どうすれば・・・。

ふと、物音が聞こえたような気がして私は顔を上げた。
 立ち上がった瞬間、口にくわえたままのタバコから長くなった灰がぽとり、と膝の上に落ちた。

そして私は、霧の奥に待ち望んでいたものを見た。

一台の漆黒の乗用車。そう、忘れもしないあのタクシー。

たった今そこに現れたのか、それともずっと前からそこにいたのだろうか、低いアイドリング音を響かせながら、それはじっと佇んでいた。
 まるでだれかを待っているかのように。

(続く)

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