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降りやまぬ雪


『雪が降っているのだろうか』

ふとそんな気配を感じた私は、パソコンのキーボードを打つ手を止めた。
 部屋の時計は午前2時をさしている。
 先ほどから、外界の物音が何かに遮断されて、なんとなくくぐもって聞こえるような気がしていた。耳をこらして外に注意を向けると、木の枝が撓んで何かがどさりと落ちる音が聞こえてきた。積もった雪が落ちたようだ。

ずっと昔によく聞いた音、よく感じた気配だった。

私は立ち上がって書斎の照明を消し、カーテンを開け放った。

窓の外は一面の銀世界だった。

朝方から随分冷え込むと思っていたら、案の定夜半になって雪が降り始めた。それも東京には珍しい大雪。

どんよりとした空の彼方から大粒の雪が次々と舞い降りてくる。
 辺りはしんしんと静まりかえり、車の音も幽かにしか聞こえない。
 マンションの3階にあるこの部屋から見おろすと、道を挟んだ向かい側にある公園の街灯が、仄かに光っているのが見えた。
 漆黒の闇から舞い落ちる雪が、街灯が放つ光の部分を通り抜ける時だけ、夜目にも鮮やかに白く輝いている。

私はいったん窓から離れ、酒を満たしたグラスを手にして戻った。
 雪見酒というやつだ。
 冷酒が入ったグラスを傾け、ゆっくりと喉に流し込む。
 と同時に、窓ガラスに付着した水滴がすうっと流れ落ちた。

『田舎にもしばらく帰っていないな』

最後に帰郷したのは5、6年前だっただろうか?東京に出てから数十年。いつの間にか私はうかうかと年を重ねてしまったようだ。

私の故郷は北海道の南端にある港町だ。
冬になると、北側の山々に浜風が強く吹き上げるため、雪はそれほど積もらなかった。しかし、風の弱いときには、大粒の雪がしんしんと降り続けた。

そして、霧笛の侘しげな音。

青函連絡船が運航していた時分は、大雪になると船舶同士の衝突事故を避けるために、昼も夜も霧笛を鳴らすのが常であった。
 特に、夜更けに独りで起きているときなど、遙か遠方の海上から、雪の合間を縫うように低く長く響いてくる霧笛の音は、私の気持ちをなんともしみじみとさせるのだった。

私が好んだのは、風のない夜、暗い空の果てから雪が際限なく降り注ぐ光景であり、また、次々と舞い落ちる雪が、街灯の光が照らす範囲を一瞬通り過ぎる際に垣間見せる純白の輝きだった。

まったくこのような光景は、いつまで見ていても飽きることがないように思われた。

外は寒く、次第に雪の中に埋もれていく。家々も木々も道路もすべてのものが、ただひたすら雪が降るのにまかせ、それが自分たちの上にゆっくりと静かに積もっていくのを享受する。

厳しい寒さとは裏腹に、そんな優しさにも似た不思議な雰囲気を、私は雪に感じていたのだ。
 子供だった私は、ぬくぬくと暖かい家の中から、冷たい窓に顔をくっつけて、大粒の雪が絶え間なく降り続けるさまを、飽きもせずじっと眺めていたものだ。


「このまま、止まなきゃいいのに」

私は窓際に立ち、そうつぶやいた。
 そしてふと我に返り、そんな言葉を口にした自分に驚くと同時に、なぜか不思議な懐かしさを感じて首を傾げたのだった。

と、その時、街灯の下にひっそりと佇む人影があることに気がついた。

外を眺めはじめた時には誰もいなかったはずだ。或いは、少しも動かないものだから、風景の一部に同化していたのだろうか。
 私は冷たい窓に顔を密着させてじっと目を凝らした。

真っ赤なオーバーを着た髪の長い少女のようだ。街灯の光の中を乱舞する雪に遮られているため、その表情まではうかがえないが、少女は心持ち小首をかしげるようにしてこちらを見ているようだ。

こちらを見ているって?そう、少女はまさに、この部屋を見上げているようなのだ。

「おいおい、正気かい。夜中の2時だぜ」

私は思わずそうつぶやいた。
 こんな夜更けに、それも東京には珍しい雪の降りしきる寒い夜に女の子がたった一人。

『いったいあそこで何をしてるんだろう。誰かを待っていて、ふとこちらを見上げ、たまたま外の景色を見ようと窓辺にやってきた俺と、目が合ったというわけか?いや、この部屋は灯りを消してあるんだ。外の方が明るいから、こっちが見えるはずはない』

少女はまだこちらを見上げている。
 私も誘われるように相手を見おろし続けた。

ふと、外に出てみようかと思った。外に出て、あの少女のところに行ってみようか。そして私は、実際にそうしている自分を想像してみた。

『馬鹿な。いい大人じゃないか。なにを好き好んでそんなことを』
 私の意識はふたたび暗い部屋の中に戻り、残りの酒を一気に飲み干した。
 冷たい液体が喉の奥に流れ込み、私は思わず身震いした。
 台所へ行き、一升瓶を抱えてもう一度窓辺に戻る。
 ときめきとも不安ともつかぬ思いに駆られながら、街灯のあたりを見おろした。

「いない・・・」

先刻の少女は忽然とその場所から姿を消していた。
 周辺には建物もなく見通しがいい。公園とは名ばかりのちっぽけな、トイレすらない児童公園だから隠れる場所などありはしない。
 となれば、考えられることはふたつ。
 彼女はこのマンションに入ったか、さもなければ消えちまったかだ。

『ここに来るつもりかな』

そう考えてから、私は思わず苦笑いをしていた。どうも今夜はいつもと勝手が違うようだ。たぶん、この雪のせいなのだろう。

『いったい、あの娘はあそこで何をしていたのかな。どこかで会ったことがあるような、妙に懐かしい気がするんだが・・・』

私は少年の頃を思い出そうとしていた。

色んな少女の顔が浮かんでは消える。そう、男子なら誰だって女の子をしょっちゅう好きになるものだ。特に子供の頃は。

酒を飲むピッチが次第に上がり始めた。

『6年生のときに好きだった娘かな?名前はもう忘れちまったが。いや、待てよ・・・』

アルコールが回り始め、体内に高揚感が漂ってきた。

私は母方の故郷の田舎町を思い出した。
 同じ北海道の、日本海に面した小さな漁村であった。
 母は浄土宗の寺に生まれた。そこには祖父母と叔父夫婦が住んでおり、叔父夫婦の間には、私より5歳ほど年上の女の子がいた。

『確か、美緒・・・という名前だったな』

私は煙草に火をつけると、今は誰もいないあの街灯をじっと見つめた。
 かすかな想い出が、うすぼんやりと脳裏によみがえってきた。
 私は額をサッシに押しつけながら、街灯の淡い光を一心に見つめていた。そうすることで、心の奥底にひっそりと隠れていた記憶が呼び戻されると考えたのかもしれない。

『あの娘が死んだのも、ちょうどこんな雪の降る夜だったな・・・』

美緒という名のその少女は、髪が長く、色白で華奢な体つきの娘だった。
 そして、大きな瞳を見開き、心持ち小首をかしげるようにして相手を見る癖があった。

私は小学生の頃、とある事情で1年間ほど寺に預けられたことがあった。
美緒は元来、病弱で家に引きこもりがちだったが、わんぱくで生傷の絶えない私の面倒をよく見てくれた。

『赤いオーバーが似合ってたっけ』

それは、私の初恋だったかもしれない。私の服のほころびを繕う彼女の横で、その白いうなじに見とれて立ち尽くす光景を、やけにはっきりと思い出すことができる。


美緒は、私が実家に帰ることが決まった頃から体調を崩し、ほどなく帰らぬ人となった。

高熱を発してうわごとを言い続ける少女を、私はなすすべもなく、障子の隙間からじっと見つめるだけだった。

やがて医師が家族全員を集めるようにと言い、皆が悲嘆にくれて病人の枕元に集まったとき、私はたまらずそこを抜け出して一人家の外に飛び出したのだった。

家の外は一面の銀世界だった。私はぼんやりと、目の前の電信柱の灯りを見上げ、明るい光の帯を通り抜ける雪の白さに見入った。

顔を濡らしていた涙と鼻水が瞬く間に凍ってしまい、顔が妙にこわばっている。やがて、家の奥から、人々の慟哭が幽かに聞こえてきた。
 新しい涙が流れ出し、束の間、顔に凍り付いた涙を溶かしてくれた。

そのとき、電信柱の陰にひっそりと佇む人影に気付いた。
 赤いオーバーを着た少女だ。
 ほんのわずかな距離なのに、不思議とその表情がうかがえないが、小首をかしげるようにして、じっとこちらを見ている。

『・・・お姉ちゃん?』

そう、それは確かに見慣れた美緒の姿だった。

「美緒姉ちゃん!」

しんしんと降り続ける雪の中、私は声を限りに叫んでいた。しかし、何故かその叫びは、すうっと雪の中に吸い込まれて消えた。
 二人の間を一陣の風が吹き抜けて、舞い上がった雪が私を包み込んだ。

「お姉ちゃん!お・ね・え・ちゃん!」

降りしきる雪の中、私は必死で叫び続けた。自分の体が何者かに押さえつけられているかのように重く、身動き一つできない・・・。

私の記憶はここで途切れている。
 気がつくと私は布団に寝かされていたのだった。

後から祖母に聞いた話によると、私は玄関を出た所に倒れ、うわごとを言い続けていたそうだ。
 皆は口々に美緒がお前を一緒に連れて行こうとしたのだと言い、私もそれを信じた・・・。


どさり、と雪が落ちる音がして、私はふと我に返った。

涙がうっすらと頬を濡らしている。
 泣いたのは何年ぶりだろうか。

『婆さんが言ってたっけ。雪の降る夜に死ぬ子は、みんな雪の精になるんだって。お前は、雪の精になった美緒を見たんだって』

そういえば、祖母はこんなことも言っていた。
 同じ雪の精を二度目に見るときは、自分が死ぬときだと。

「そうか。俺はもうすぐ死ぬのか」

そう呟いて、私はまた苦笑いした。アルコールの酔いが心地よく感じられるせいか、別段それでも構わないような気がした。

『大人が死んでも、雪の精になれるかな』

私は、ふと玄関の方を振り向いた。
 そして、赤いオーバーに身を包んだ美緒が、ドアの向こう側にひっそりと佇む光景を心に描いた。

とめどなく湧き上がる、甘く切ない思いを胸に抱きながら、私はひたすら玄関の方を見つめ続けるのだった。

少年のようにあやふやで不安な気持ちのままで・・・。

(終わり)

                          1990.12/2021.10





 

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