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【前漢・陸賈】「馬上天下をとるも、馬上天下を治めず」~経営者と起業家が教訓とする言葉

皆さん、わたしのnoteにご興味をいただき、ありがとうございます💁

タイトルは、「武力で天下を取ることはできても、武力で天下を治めることはできない」

そういう意味だ。

これまで私はそれを、起業と経営に置き換えて、読んでみていた。

その人にとって一番の武器で起業を成功しても、その人の同じ一番の武器で経営をしてはならない。と。

起業を成功させる、その人の一番の武器。たとえばその人の才能とか、アイディアとか、スピード感とか。勢い力とか、突破力とか。

だが、経営に入ったら、切り替える必要がある。武力では治められない。
柔軟に、切り替える必要がある。これから、何が必要か模索しながら経営する必要がある。

「服部千恵子の大学設立日記」より。


私事で恐縮だが、1990年代の後期、20世紀末のことである。

私は、パソコンソフトを電話営業のセールスで売り上げて、個人戦と団体戦で全販社の中で、全国優勝した。

この話は、疾風のように駆け巡り、様々な全国の経営者の耳へと届くこととなった。

いわゆる、ヘッドハンティングの対象となったということである。
わたしと、チームの5人に対して、どうしても、「弊社とともに会社を作り、起業しないか」という誘いである。

チームの5人は私をリーダーとして、全員がホストクラブのセールス並みに女性を口説き落として、高額な商品を売り込む能力があった。
実際に、歌舞伎町のホストの体験者もいた。

私たちは、電話営業だけでなく、対面でも通用するほどに容姿にも恵まれ、ナンパも得意としており、既婚者である私以外は、日常的に女性を口説く才能を磨いていた。

20代から30代前半のチームはモテ期を極め、女を見ると、あいさつのように口説き、その日のうちにどうにでもしてしまう実力を兼ね備えていて、自信家集団だったと言っても過言ではない。

5人そろえば、月間で、3,000万以上の売り上げと、その半分の粗利を出していたので、お声がかかるのも、不思議ではなかった。

リーダーだった私は、設立されるであろう会社の取締役としての座が確約されいたから、あくまで、強気で交渉に応じ、一番、条件の良い経営者を探すのに集中。幾多の資産家らと協議を重ねて、遂に決断。

それが、旧都民銀行役員経由で知り合えた、総合商社の役員。

彼は、私を取締役として、多額の年俸を保証するという。

出会いの運というものは、予想外の巡りあわせで起きるもの。

彼のいた丸紅と、その本家でもある、伊藤忠商事はわたしの以前の取引先だったということだ。

その氏は、わたしのことをよく知っており、それが、この起業に向けての大きな信頼関係を結ぶためのキッカケでもあり、絶好のチャンスでもあった。

この「運」を活かさずには、何が出来るだろう。

この千載一遇の縁をつかみ取るために、その氏と何度も打ち合わせと、起業化するメリットと推奨を繰り返す。

それは芽を結び、氏はついに、多額の資金援助を約束してくれた。

資本金と設備投資などを含めて、数千万の投資を快諾して頂いた。

100万の桐のデスクと70万の本革の椅子に着座。
丸紅の元役員と、彼が率いてきた部下ら社員らの前で、まるで、文部百官を引き連れた皇帝の如く、立ち居振る舞い、発起人集会と、取締役会を経て、大勢の社員と歓迎に駆け付けた人々の中、開業と役員就任の辞を述べた。

社長は、会社のオーナーであり、傀儡であり、実質の経営権限の全てはわたしにあった。
会社の全ての決裁権はわたしに委ねられていたのだ。

一流大学の出身でもない、一流企業の社員でもないわたしが、総合商社の人間たちや、弁護士や税理士らとというエリート集団らと共に起業に成功。

話術と、女性心理を掴む。ただ、それだけの能力で、このような、「天運に恵まれた」

それだけで、部下が従いついてきた。

まさしく、わたしは、

馬上で小さな天下を取ってしまった気分になった


ちっぽけな才能と、資金力のあるオーナーに恵まれたという運だけで、
起業できたということに過ぎない
ということだ。

自分たちは、商品が売れれば、それで会社はなんとかなると油断して慢心していた。

予測していた以上の売り上げにも成功したし、世間にも認められた。

年収も、総合商社社員の同年代の、約2倍は得ていたと推測する。

以前の会社の上司や、取引先の経営者らに、持ち上げられ、おだてられ、

この上ない、自己満足に浸る日々が続く。

「実力さえあれば、大丈夫だ。せっかくの高収入となった。欲しいものは買い、好きな女と遊び、やりたいようにさせてもらおう」

「王侯将相いずくんぞ種あらんや」 (出典・史記「陳渉世家」)

とはよく言ったものだ。

経営者になって、地位が高まるのも、家柄や血統の良い温室育ちのエリートだけではない。自分自身の才能や努力によるものだぞ。

と密かにほくそ笑んでいたのかも知れない。

会社を存続させることや、社員のことなども考えもしなかった。

中には諫言してくる者がいた。

このままでは、いけませんと忠告する者もいた。

だが、それらの話には聞く耳も持たなかった。

結果、3年と持たずに、私は危険を察知して退任して、逐電。

まもなく、会社は、大赤字を出して、解散した。

そこに、勢いと、人海戦術だけの限界を知ることになる。

経営をあなどり、勉強をおこたった天罰である。

馬上で天下は取れども、馬上で天下は収められないと、痛感するのだった。


プレジデント・オンラインより。

武勇で天下は取れても、天下を治めることはできない

「馬上で天下を取ったとしても、馬上で天下は治められない」という言葉がある。

いくら武勇に優れていても、平定することはできても、国を統治することはできないというのである。ここに創業と守成の大きな相違を見出すことができる。

漢(かん)の高祖劉邦(りょうほう)はライバルの項羽を倒して漢王朝を興して皇帝の位につくが、7年後、体調を崩して病の床についた。病状は日に日に悪化し、心配した皇后の呂后(りょこう)が、名医を探し出して診察にあたらせた。

ひととおり診察が終わったところで、劉邦が自分の病状を尋ねたところ、医者は笑って「きっとよくなります」と慰めた。ところが、劉邦は声を荒らげ、「天下を取れたのも天命なら、今こうして死んでいくのも天命、この天命だけはどんな名医もどうすることもできない」といって、治療をさせず褒美(ほうび)だけを与えて医者をさがらせたという。

一介の庶民から身を起こし、「天下を取れたのは天命だ」というのは、噛み砕いていえば、天下を取れたのは努力や能力が優れていたからではなく、運がよかったからだということにほかならない。これは劉邦の偽りのない実感だったことだろう。

松下電器(現パナソニック)の創業者である松下幸之助も、同じようなことを語っている。あるとき「あなたがこれほどの成功をおさめた理由はなんですか」と聞かれて、「いやなに、人様よりも少しばかり運がよかっただけですよ」と答えたといわれている。

こうした感慨は、創業の経営者が成功した後で過去を振り返ったとき、共通しておぼえるものかもしれない。もちろん、その人が謙虚な人物であればという前提はつくが……。

いずれにしても、創業してあらゆる困難を乗り越えて成功にたどりつくには、得体の知れない不確定な要素である「運」というものがかかわってくることは、認めざるをえない。だから創業には、誰にでもあてはまるような共通の成功法則など、容易に見つけだせないのである。

創業から守成への切り替えが鍵

たとえ創業に成功しても、成功体験にとらわれて守成への切り替えを怠ると、その組織はいずれ衰亡していく。どう切り替えていくかが生き残りの鍵となる。

『貞観政要』が愛読書であるトヨタ自動車社長、会長を務めた張富士夫氏(現相談役)はこう語る。

「組織の上に行けば行くほど、現場のまともな情報が入ってこなくなるという現象は、いつの時代にもあるようだ。

裸の王様ではないが、歪んだ情報ではなく、正確な情報を自分のもとに還流させることをリーダーは常に心掛けなければならない。(中略)

課長でもそうなのだから、部長になり、役員になればもっと現場の真実から遠ざかってしまう。

頻繁に自分から現場を見に行かなければならない。『まず現場を見ろ』という大野さんや鈴村さんの教えは、後になっても噛み締めることが多い。

『貞観政要』に描かれている明君と名家臣たちの関係からも、トップが現場を掌握するために何をすべきかをいま一度学んだように思う」
(『プレジデント』2006年9月18日号インタビューより)

劉邦はもともと名もない農民の家に生まれ、ほとんど無学無教養だったが、皇帝ともなるとそうはいかない。

そこで教育役として陸賈(りくか)という重臣が選ばれた。

もともと学問に興味のない劉邦はすぐに嫌気を起こし、自分は「馬上で天下を取った」のだと怒鳴りつけたそうだ。

対して陸賈は「陛下は馬上で天下をお取りになりました。だが天下は馬上では治められませんぞ」と反論した。

その言葉に道理があると認めるや、劉邦は怒りを抑え、以後、引き続き帝王学についての教育を受けた。

テキストに使われたのは、『詩経(しきょう)』と『書経(しょきょう)』の2冊だった。

古代中国の詩歌集『詩経』は、表現力を高めることにつながり、もう1冊の『書経』は、古代の帝王と補佐役たちの間で交わされた政治についての問答や彼らの事績をまとめた古典。

国を安泰にして滅亡を免れるための政治の勘所が、さまざまな角度から説き明かされているまさに政治学の教科書である。

劉邦の漢王朝はようやく創業が成って、守成の時期に移行しようとする時期だったことから、『書経』は学ぶべき帝王学として打ってつけの内容だった。

創業の苦心は継承することはできない

天下人の徳川家康は、岡崎の小城主の子として生まれ、幼いときから人質に出されるなど、生き残りの苦労を味わいながら育った。

そんななかで学問を身につける余裕もなく、成長してからも戦いに明け暮れる日々で、何かを学ぶ時間などなかった。

晩年に近くなり天下取りの視界が開けてきてから、家康は儒学者の藤原惺窩(せいか)を招いて『貞観政要』の教授を受け、さらに後には惺窩の弟子の林羅山を江戸に招いて、儒学の習得に努めている。

おそらく家康も、「馬上では天下を治められない」ことがよくわかっていたのだろう。

そこで、みずから儒学を修めることで、「文治」への転換をはかろうとしたのだ。

徳川の治世が270年も続いたのは、この転換に成功したことも大きな要因の1つと考えられる。

『貞観政要』には、彼らが守成の時代をどう乗り越えていったのか、その苦心がまとめられている。創業も難しいが守成も難しいもの。

ただ、創業の苦心は理解することはできても継承することはできない。

イトーヨーカ堂グループの創業者の伊藤雅俊は、世襲問題に触れて、「成功した創業者というのは『狂気の人』であり、他人と同じことをしていては成功しない。

違うやり方だったからこそ成功したが、その経営手法は血を分けた子供であろうと、語り継げても受け継ぐことはできない」と発言している。

これに対し、守成の心得はその気になればいくらでも学習可能だ。その守成の仕事に生きがいを見出し、自分の人生を賭けていたのが、魏徴という重臣だった。

唐の太宗の時代にどれだけの人材が輩出し、彼らが安寧の時代を築くためにどれだけの努力をしたのか。その姿は現代のビジネスパーソンにも共通するテーマを多く含んでいる。まさに「歴史から学ぶ」という言葉を実感せずにはいられない。


「愚者は過去に学び、賢者は歴史に学ぶ」という。

わたしは、愚者ゆえに、愚者だからこそ、歴史から学ぶことにしている。

先に述べた経営の失敗と、自分の未熟さを知り、それからは反省の日々が続いた。

その過ちを犯した年齢が若かったのが、不幸中の幸いであった。

それから、真摯に、そして、冷静に次の経営へと着手した。

広告代理店や、教員事業、ソフト開発という異分野への挑戦。

全くの徒手空拳であったことは否めない。

雇用する人選にも慎重に当たったし、楽な道は選ばなかった。

あくどい商売にも手を付けず、地道な道を探った。

目先の利益に惑わされぬよう、石橋叩くように用心深く一歩ずつ歩いた。

部下や取引先の声も、極力聞き入れ、下の者を粗末に扱わず、奢侈を徹底的に避け、言い寄ってくるような異性と関わるのも慎んだ。

これらは、全て歴史の書物、とりわけ、「貞観政要」から学び得たもの。

この言行録の主役は、唐の太宗。

同書は、歴代の中華皇帝や、源頼朝と北条政子夫妻、北条歴代執権、徳川家康とその後継将軍たち、歴代天皇らが、愛読して、語り継がれたという。

太古の昔、秦帝国に反乱を起こした三人がいた。
言うまでもなく、その代表は、陳勝、項羽、劉邦だ。
陳勝は、「張楚」の王。項羽は「西楚」の覇王の座にあった。
陳勝と項羽はあれだけの勢いと力がありながら、天下を取れずに殺害された。
だが、劉邦は、中国の基礎を作り、漢帝国の創始者として歴史に名を留めている。

わが国では、下剋上で末端から這い上がり、その頂点を目指すものがいた。
こちらも、有名な織田信長、豊臣秀吉、徳川家康だ。
信長は足利義昭を追放して右大臣に。
秀吉は天下を統一して関白太政大臣に。
いずれも天下の中枢に位置していてその支配は確約されていたはずだった。

信長と秀吉は、自らの政権を代々に残すことは出来ずに志半ばで死亡。
それを継いだ家康は幕府を開き、大政を奉還して、権威を返上してもなお、現在まで子孫を残し、徳川宗家は連綿と続いている。

この違いは何か?

成功した者はなぜ成功したのか。

失敗した者はなぜ失敗したのか。

答えは明白だ。

おごり高ぶり、武のみに任せた者と、

部下の進言に耳を傾け、「学問を奨励した」者の違いである。













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