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その44 子どもの未来を引き出す探究型教育(2765文字)

1 はじめに

 日本の公教育は、子どもの可能性を引き出せているのでしょうか。
 大きな大きな問いです。

2 今昔 公教育

 今も昔も変わらずに、先生達は、基礎・基本を大切に授業をしています。

 子ども達を「基礎・基本」の型に押し込めようとしていると捉えることもできます。

 「基礎・基本」から、学びを得られる子にとっては、有益な授業になるでしょう。

 イメージとしては、土台から順番にブロックを積み上げるような学び方です。

 しかし、すべての子どもにとって「積み上げる学びは可能なのか」という問いが、頭をもたげます。

 決して「基礎のない応用」を目指しているのではありません。

 決して「習得・活用・探究」を否定する気持ちもありません。

 すべての子どもに、学びを積み上げること、それは、現実的に、とても難しい事実ではないでしょうか。

 積み上げることが容易でない子どもに、何回も何回も同じ漢字を書き連ねる学習の結果、100点を取れるようになることは、そうそうないことのように思います。
(ペーパーテストや学習の概念については、別の機会に考えていきます。)

 結論、積み上がらないのです。

 家庭環境によることもありますし、本人の発達特性によることもありますし、本人の学習に対する考え方にもよりますし、その原因は様々です。

 「覚えないと困るのは、子ども本人でしょ。」と先生達は、言います。

 しかし、その為に、学習イコール勉強、強いられる、おもしろくない、辛い、ヒマ、受け身…等と、マイナスイメージで埋め尽くすことへの疑問があります。

 「仕方ないでしょ、受験があるんだから」
 「仕方ないでしょ、学習指導要領で決まっているんだから」
という声も聞こえてきそうです。

 このような一律な教育観のもと、目の前にいる個性ある子ども達に、一律な勉強を強いているのが主な現状では、ないでしょうか。

3 探究型教育

 好きなものを必ず持っているのが、子どもです。
 子どもというものは、生きる過程で目にしたものに対して、なにがしかのきっかけを得て、好きになっていくようです。

 歌舞伎、カワウソ、恐竜、電車、映画等々。

 この好きなものに「とことん」のめり込むことが、学びそのものであり、探究でもあります。

 好きなものに打ち込む為に、文字を学ぶこともあるのでしょう。

 探究的学びでは、文字に対するマイナスイメージを抱くことは、あまりありません。
 また、ノートへの反復練習だけが、学びへの唯一解となることは、ありません。

 ひらがなや計算が学びのゴールではありません。

 むしろ、学びの手段になることのほうが多いのかもしれません。

 つまり、基礎・基本を覚える為に学ぶのではない、ということです。

 『探究』や『応用』と表現できる、子ども自身が興味あることへの探究過程で、『基礎・基本』と表現できる、文字の習得があるのだと捉えることができます。

 教室のなかで、椅子に座って、先生の教えるとおりに学ぶことに、どれほどの価値・意味があるのでしょうか。

 「大好きなカワウソのことを知りたいが為に、探究していくなかで、気がつくと、カタカナを読めるようになっていた」というような、子どもの姿が、とても輝いて見えます。

 このように考えると、小学校2年生の2学期に、全員一律に九九を習得することや、学年や学級が、同一年齢で構成されることにも、どれだけの意味があるのかなと思い始めてしまいます。

 むしろ、いじめや不登校、無気力、問題行動、非行を誘発する環境を公に認めるのが、このシステムとも言えてしまうような気もします。

 探究心溢れる子どもの学びを目の当たりにした大人達は、ただただ不安を覚え、次のようなことを言うこともあります。

 「好きなことばっかりしてたら…」
 「そんなことより、勉強しなさい」
 「3年にもなって、こんな問題もわからないの!」と…。

4 公立で探究型へ移行できる可能性

 それでは、今の学校組織では、探究型の学びは不可能なのかというと、必ずしもそういう訳ではないと思っています。

 学習指導要領というものがあり、学年や教科で学ぶことは、ある程度、定められています。

 算数の授業を想像してください。

 学習指導要領に基づく、指導書では、毎時間学ぶべき内容をわかりやすく具体的に示されています。

 公教育の教師たるもの、毎時間の授業で、これを必ず教える必要があります。

 しかし、実は『教える』というのは、『授業の時間内に、そのことを取り扱えばいい』と考えることもできます。

 変な表現になりますが、別の言い方をすると、その授業の内容を、目の前にいる子ども達40人全員が、完全にマスターする必要は、ないということです。

 全員がマスターして、はじめて学習指導要領の内容を満たすと条件づけられるのならば、誰も彼も進級することができなくなります。

 ペーパーテストで言うなら、全員が100点を取れる状態のことかもしれません…。

 言葉足らずな表現ですが、教師が「この内容をちゃんと授業しました」と言えればいいのです

5 実際の探究型授業

 実際に、こんな授業が可能です。

 小学校5年生「割合」の授業です。

 目の前にいる子どもの中には、九九をマスターしていない子もいます。

 教科書の漢字を読めない子もいます。

 到底、その時間に「割合」の内容を理解したり、計算したりすることは、不可能に近いと思えてきます。

 これが教室の事実です。

 公教育の教室では、同じ教室のなかで、少なくとも、ひと学年程の学力差が存在するのです。

 となると、全員に一律な学びをもとめることに無理があることが、自然とわかります。

 授業で取り扱う「学習課題」は、形式的に学習指導要領にならって、一律にならざるを得ないと仮定しましょう。

 しかし、この学習課題に向き合うなかで、40人分、それぞれの学びが展開されることが大事なはずです。

 学習課題を見た時に、一人一人異なるめあてが 設定される可能性があるでしょう。
 となると、45分後には、40人分の40パターンの気づき、学びがあることが必然になります。

 くり上がりのたし算を理解する子ども
 割合の意味を理解する子ども
 小数の読み方を理解する子ども
 小数の仕組みを理解する子ども
 百分率を理解する子ども
 漢字の読みを学ぶ子ども

 それぞれでしょう。

6 おわりに

 このような授業づくりをしていくことで、子どもは主体的に自分自身の課題を見出し、それに向き合う為に、グループの友達と対話的に学び合い、そして、自分の未知と出会う深い学びを実現するのではないでしょうか。

 このような学びを毎日続けていくことで、自分軸を持った、自分で行動を起こすことのできる、自ら生きる力を育む、子どもを実現できるのではないかと考える今日この頃です。

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