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伝える~28年目の記憶・想い~

28年前。
1995年1月17日、神戸。
阪神淡路大震災。

最初に思い出す光景は、燃える我が家です。

当時、小学5年生だった私は、凍える寒さに震えながら、住み始めて一年の新築の家が燃えるのをただ茫然見ながら、立ち尽くしていました。
ただ、驚異的な自然の力の前に、何もできなかった。そんな記憶です。

1.1月17日の記憶

兵庫県神戸市に住んでいた私は、学校が大好きでした。
ちょうどあの日は、成人式があった3連休明けの日で、「早く明日にならないかな!」とワクワクしながら寝たことを覚えています。

5時46分。
轟音とともに、跳び起きました。まさに字のごとく「跳んで」起きたのです。
観測史上初の震度7。数十秒の激しい揺れは、永遠にも感じて、まるで巨人に家を掴まれて縦に横に揺さぶられたようでした。
そのあと、一旦、あたりはしーんと静まりかえりました。
夢とか思ったし、何が起きたのかまったく分かりませんでした。

家の中は、ぐっちゃぐちゃ。立っている家具は一つもありません。
重さ数百キロはあるピアノも逆さ向きにひっくり返っていました。
床は、ガラスの破片や、冷蔵庫や洗濯機から漏れ出した液体まみれ。裸足では歩けませんでした。
新築の我が家の階段は亀裂が入り、歪んでいました。

あとから調べて分かったことは欠陥住宅。
でも、当時の神戸の人たちは、「神戸には地震なんて来ない」と信じて疑わなかったから誰もそんなこと気にもしていませんでした。私もそうでした。

当時は、まだ木造家屋の家もあって、外に出てみると、崩れ落ちた家もたくさんありました。「○○さんが居ない」と近所の人たち同士で声を掛け合って、瓦礫の下の声を頼りにその辺に転がっている使えるものは何でも使っての救助作業が行われました。

救急車もすぐには来ませんでした。正確には、道路が瓦礫や電柱で塞がって路地を入って来れませんでした。
助け出された人の中には、すでに手の施しようのない方もいました。小学生の私はただそれを見ているだけしか出来ませんでした。

地震から数時間あと、数軒となりの家から火の手が上がりました。
しかし、消防車も来ず、バケツリレーも試みましたが、そもそも水道がどこかで破裂しているのか水が一切出ませんでした。
火はあっという間にどんどん燃え移り、隣の家に火が付いたときに、私たち家族は家を諦めました。
でも、これから先も生きていかねばなりません。

我が家に入り、生きるために必要な服や毛布や銀行の手帳や印鑑だけを急いで探して持ち出しました。本当はたぶんもっと大切なものもあったけれど、命には代えられませんでした。
移動に必要と思われた車と自転車の鍵は、ぐちゃぐちゃに散乱した中、どこを探してもなかなか見つからず、最後の最後まで探し続けました。
あの時の、火の熱さは今でも忘れません。

最後にようやく鍵が見つかって、燃え盛る火の中を、命からがら逃げだしました。
数時間後には、一面焼け野原となりました。

地震後、2日後に撮った写真です。燃えてしまった我が家。

いちばん怖かったのは、その日の夜でした。
私たち家族は近くの親戚の家に身を寄せることになりましたが、夜の間もしばらく余震は続き、子ども心に「次にまたあの地震が来たら、今度こそ死ぬかもしれない」と思い、寝ている間に来たらと思うと、怖くて目が閉じられませんでした。悪い夢なら早く覚めてくれとずっと思っていました。
テレビから流れる被害を伝えるニュースも、不安や恐怖をただただ掻き立てました。

大好きだった小学校も、避難所になり、通えなくなりました。
友だちとも連絡が取れず、会えなくなりました。
両親は私の身を案じて、私だけ和歌山の祖母の家に疎開させることを提案しました。本当は家族と離れたくありませんでしたが、ここで自分が駄々をこねると余計に迷惑をかけると思い、提案に従うことにしました。
和歌山に向かう近鉄電車の中で、地震が起こったあと、初めて一人で泣きました。

2.避難訓練の意義

毎年、阪神淡路大震災が起こった1月17日には、クラスの子どもたちにこの記憶を伝えています。
勤務校では、この日の前後に避難訓練をすることが多く、避難の仕方はもちろんですが、地震のメカニズムや、自分の身は自分で守ること、「こういう場合はどうしたらいいと思う?」と具体的な場面を想像させながら、いざという時に適切な判断・行動がとれるように、話し合っています。

12年前の東日本大震災の時には、当時勤務していた学校では、奇跡的なことにちょうどその日に避難訓練が行われました。
当時は6年生の担任で、卒業式まであと数日という日でした。
下校中でしたが、まだ学校に残っていた子どもたちは、上級生が下級生をうまく誘導しながら、校庭の真ん中に集まっていました。下校途中の子どもたちも、それぞれの場で適切な行動がとれたようで、大きな怪我などもありませんでした。避難訓練の価値を、改めて突きつけられました。

青年海外協力隊で赴任したグアテマラでも、任務内容(算数を教える)とは違いましたが、避難訓練を実施しました。
グアテマラは火山地帯で、日本ほどではないですが、地震が起きます。
私が居た時にも少し大きな地震があり、そのときたまたま街中にいましたが、グアテマラの人々からは身を守る行動はほとんど見られず、とにかく逃げ惑う、泣き叫ぶ、その場に座り込むか立ち尽くす・・・。これでは、思わぬ二次災害を起こしかねません。

聞けば、学校で一切、避難訓練をやっていないということ。
これはダメだと、派遣先の学校の校長と掛け合って、避難訓練のシステムを導入することにしました。
スペイン語で企画書をつくり、職員に避難訓練の意義を訴え、私が居なくなったあとも続けていけるように、一からその方法を伝授しました。
最初は避難完了までにものすごく時間がかかりましたが、数回続けていると、格段にその時間は短くなり、成果が現れました。
噂を聞きつけた近隣の学校からも依頼を受け、何校かで同じように職員・児童生徒に向けて避難訓練の講習会を行いました。

グアテマラの学校に防災頭巾はないから教科書で頭を守る。
教育実習生に帯同して避難訓練を教えました。点呼を取るやり方。
阪神淡路大震災の経験と、避難訓練の意義を伝えています。
「おさない・走らない・話さない・戻らない」の4つの約束も教えました


3.被災者として生き残った自分にできること

震災を知らない世代が増え、その記憶の継承が問題視されるようになっています。神戸に住む半分ぐらいの人が、阪神淡路大震災を知らない世代だと聴いたこともあります。そういう私も今は神戸から遠く離れた地で生きています。あの震災のあとから始まったイルミネーション「ルミナリエ」の本当の意味も知らない人が多いのだろうなと思います。

あの地震を生き残った者として、自分にできることは必ずあると、毎年目の前の子どもたちや、学級通信を通して保護者に語りかけています。
震災の経験をこうして毎年、未来ある子どもたちに伝えられる立場にいるのは、ある意味で幸運なことだと思っています。

地震なんて来ない方がいいけれど、この日本で生きている限り、必ずいつかどこかで、また地震や天災は起こります。そのときに、一人でも多くの命が助かるように。
普段から意識して準備をしていれば、いざというときの初動で命を守れる行動が取れるかもしれない。その数秒間の咄嗟の判断・行動が、命を救うこともあると思うのです。

私自身も地震なんてどこかテレビの中の世界で起こるものだと思っていました。自分自身が体験するその瞬間まで。まさか自分の身にそんなことが降りかかってくるなんて1ミリも考えていませんでした。
でも、その「まさか」は起こりました。
あのとき、亡くなった人たちだって、まさかその日に自分が地震で死んでしまうなんてこれぽっちも思っていなかったでしょう。
何かが少しでも違っていたら、死んでしまっていたのは自分かもしれない。

生きたかっただろうな。生きていたかっただろうな。と思います。
私たちは、あの時に亡くなったたくさんの方々が痛切に生きたかったであろう未来を、今、生きています。
だから、私は伝えなければいけない。警鐘を鳴らし続けなければいけない。
考えるきっかけを。いざというときに、自分や大切な人の命を守れるように。

来年も、再来年も、震災の被災者として、子どもたちの前に立ち、私は伝える。自分の記憶を、知識を、想いを。


つばっち_川原翼@神奈川(元兵庫県神戸市)

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