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6.俯瞰的に街を見るとは? −生態系の一部としての人−

【全8回連載目次】
1. 我々は街をどう見ているか?
2. 人々は街で幸せになったか? −「感情の劣化」の問題−
3.「リアルな街」とは何か? −フュージョン体験と街−
4. 人間の尊厳と街との関係 −廃墟が魅力的な理由−
5. 僕たちは街と対話している −アフォーダンスとノイズ−
6. 俯瞰的に街を見るとは? −生態系の一部としての人−(←今回)
7. 街が立ち上がり、人が輝く瞬間 −文学やドラマが捉える街−
8. 我々は街をどのように見ていくべきなのか?


ハビタット—「生態系内存在」「共同体内存在」としての人

 このセッションにあたり私が投げかけた2つめの問いはこうでした。

2.ローカルな地域主体のまちづくりと、俯瞰的に考える都市計画との連動はいかにあるべきか。

 都市計画は、そもそも都市圏、行政区域など広域を見渡して将来を構想し計画をつくるものですが、一方で、特定の地区に限定したローカルなまちづくりは個別に取り組まれています。このような2つの動きはどのように連関すべきなのかという問いです。
 蓑原氏は、これまでの業務経験もあり、もともと物事を俯瞰的かつ総合的に考えるタイプの人だと思います。建設省時代には、国土利用計画や都市計画、建築の法制立案にも関わっており、急速に成長する日本の都市のあり方について深く考察してきた人の1人です。

 では、そもそも俯瞰的に見るとはどういうことでしょうか。蓑原氏はかなり前から、「ハビタット(生息域)」という概念を用いて説明します。つまり、都市化が進んだ社会では、いわゆる都市−農村という区分ではなく、それら全体が「都市化」しており、その全体の生態系の中に、人も生き物も住んでいるという認識が必要だと言います。つまり、人の生息域=都市、生き物の生息域=自然や農山村、という区分で語ることはできず、人は「生態系内存在」だということを認識しなければならないと言います。ここで言う「都市化」しているというのは、都市型のシステム・サービスが供給されている状態、と理解していいでしょう。

 さらに人の特性として、「共同体内存在」であることも重要だと言います。つまり人は1人で生まれて1人で死んでいくことはできず、生きている間は何らかの共同体に属さないといけない、生身の体を持った存在であるということですね。つまり人は、「生態系内存在」であると同時に「共同体内存在」であること、この基本認識は街を考える出発点でもあり、俯瞰的にものを見ることだと言っています。

俯瞰的な都市計画を実施してきた時代

 では、これまでの都市計画はどのような視点で進められてきたのでしょうか。蓑原氏は言います。

 近代化、人口膨張、経済成長が進む時期においては、ヒトのハビタットも急速な変貌を遂げる。ヒトが今まで住んでいたハビタットとは異なった環世界を人工的に短期間に作り出すことになる。当然、その行為を包む自然環境、風土は急激に変わります。その時、安全、利便、快適を求めて、大規模な開発、再開発を急速に成し遂げることが避けられなかった。
 ジェーン・ジェイコブスがいかに非難しても、ある時期には、俯瞰的な都市計画は必要だし、NYにとってロバート・モーゼスは欠かせない存在だった。日本でも、国土庁の下河辺淳や横浜市の田村明のように、総合的、俯瞰的に考えてアーバニズムを進める人が存在した時代がありました。僕は、そのような急速な経済発展の過程の中で仕事をしてきたから、俯瞰的に考えて、仕事をすること自体を全面的に否定する言説には同意できない。今の日本の都市の在り方に違和感があっても、当時の事情の理解が欠かせません。それは近代化に遅れた後発国でのアーバニズムを考える時にも突きつけられる問題です。

『全国まちづくり会議、宮台氏との対談のためのメモ』蓑原敬

 まず都市化の時代にあっては世界中の都市で大規模な開発が進められてきたということですね。それに対し、例えばアメリカの記者、ジェーン・ジェイコブスは著書『アメリカ大都市の死と生』の中でこのような近代的な俯瞰的視点による大規模開発中心の都市計画を批判しました。ローカルな人の生活を大事にせよと。さらに言います。

 近代化、人口膨張、経済成長の時代には、俯瞰的に考え(先進国があり予測がしやすかった)時間を止めて、近代化の変化の被害を受ける人を説得した上で、できるだけ大規模なプロジェクトにして、設計し、施工してモノを作り出すという静態的な仕組みが欠かせなかった。マスタープランを作り、それを効率的に実現することが欠かせなかった。近代主義的な開発です。

『全国まちづくり会議、宮台氏との対談のためのメモ』蓑原敬

 俯瞰的にものを考えるのは都市計画、アーバニズム(都市計画、まちづくりを包括する概念)の基本であるが、日本においてはこの仕組みが十分ではなかったと蓑原氏は言います。どういうことでしょうか。

都市計画と「俯瞰」

 俯瞰する都市計画について、蓑原氏は言います。

 都市というのは、制度都市計画とか土木とか建築とか造園とか、そういう分野別に取り込まれてる問題ではなくて、人間の生活全体をカバーしている領域だから、その領域をどう考えるかというふうに考えないといけない。俯瞰的に物事を見て、いろいろな専門職をつないで、それと一緒になって物を作っていくというシステムが、実は都市計画なんだけど、今の制度都市計画は、そうなっていない。今は、そのような俯瞰的な都市計画をアーバニズムという言葉で呼ぶのが一番普遍的だから、アーバニズムという言葉を使うとすれば、実は日本では本来都市計画がアーバニズムであるはずなのに、そしてヨーロッパでは少なくともそういう観念で、もはや部分的なセクターの努力とか、先ほどの話じゃないけど、民間が何かをやるのは素晴らしいことだという話ではなくて、民間も役所も市民も一体となって物事ができていくという、プロセス全体の枠組み問題なのに、そういう議論になっていない。

蓑原氏発言

 少し具体的になってきました。まず、先に述べたハビタット全体を見て、様々な専門を繋いでものを作っていく仕組みという観点が1つ。
 次に、仕組みの問題に言及します。つまり行政分野の縦割りを横断的に行うことが俯瞰した都市計画には欠かせないということ。しかし、日本では2000年に地方分権が一気に進んだかに見えて、中央(国)の縦割りの構造がそのまま地方に降りてきており、かつ分権と言いつつ、実質的には中央の権力が地方にまだ強い影響を及ぼしているという点を問題視しています。
 さらに3つ目は官民連携です。最近では当たり前と思われていますが、本来行政と民間が一体となって協議しながら進めるべきところが、民間に委ねすぎているということを指摘し、このような意味で日本では俯瞰的な都市計画はないとしています。

ローカルなまちづくりと俯瞰的なアーバニズム

 それでは都市計画はこのままでいいのでしょうか。海外の考え方の変化について蓑原氏はこう言います。

 しかし、ヨーロッパやアメリカの一部では、それが歴史がある市民社会には馴染まないとわかって1970年代には方向転換している。アーバニズムは、開発、再開発だけでなく、修復、保全も含めた包括的なものに変わっています。日本はまだ、それが変わっていません。
 1980年代以降、新自由主義が台頭した西欧社会で、国家や大資本が主導するアーバニズムのプロジェクトでは、部分的ではあっても、俯瞰的に仕事を進めようとしている。今の日本でも、俯瞰の目的と対象が換骨奪胎されていますが、大丸有、日本橋、六本木などがその良い例です。

『全国まちづくり会議、宮台氏との対談のためのメモ』蓑原敬

 ヨーロッパでは俯瞰的視点による近代主義的な開発中心の方向から転換し、地域の歴史や資産、文化を継続させる手法、つまりローカルな価値を重視する手法に早くから転換したと言います。さらに、ローカルなまちづくりについてこのように言います。

 ローカルな地域主体のまちづくりは、日本ではどうなっているのでしょうか。イタリアの「まち」に代表されるヨーロッパのまちは明らかに自治都市で、地域主体と言えそうなアーバニズムの結晶です。ヴェニスの人は自分をイタリア人であるよりはヴェニス人だと思っている。「まち」の人間関係を維持し、まがい物でない「まち」の空間の文脈を維持継承しようとし続けています。
 特に最近では、オランダや北欧の都市のアーバニズムが熟成しつつあるように見えます。長い長い歴史の継承を経て、今に至るまで、地域に主体性がある。さらに地域の中を分けて、より小さい単位でのアーバニズムにも深い配慮がされつつあるように見えます。その中核には成熟した判断力を持つ、歴史の中で自治を守ってきた市民がいるのではないかと思います。
 日本でも、倉敷、高山に始まり伝統的な街並みが残っているところでは、地域主体のまちづくりが行われてきたし、小布施や三春のように、それを計画的に作り上げることに成功している事例もあります。
 しかし、これらの「まち」も自らのまちづくり制度を自ら作り上げてきたわけではない。日本では「ローカル」は国に従属している部分でしかなかったからです。

『全国まちづくり会議、宮台氏との対談のためのメモ』蓑原敬

 ローカルなまちづくりは重要だということを言っていますね。では、俯瞰的に見ることとローカルなまちづくりは矛盾しないのでしょうか。蓑原氏の一連の発言を聞いて私はこのように解釈しました。
 まず、アーバニズムには俯瞰的な視点が必須であるということ。俯瞰的とは、分野横断的かつ、広域的(ハビタット的)にものを見ることであり、さらに、時間的な視点でも広く見ること。そして、俯瞰的なアーバニズムを進めるためには、官民市民が連携できる体制と意思決定機構が必要であること。とくにこの点は日本ではまだ弱いということ。
 次にローカルなまちづくりは時代性を考えると必要な概念であり、ここにも俯瞰的な視点が必要であること。そして俯瞰に対するローカルという対立概念ではなく、近代主義に対応するローカリズムという対比構造であることです。

 さて冒頭のハビタットのことに戻ります。生態系内存在である人とそれを包含するハビタット、これをどのように捉え、新たなアーバニズムを構築していくのか、これについてはまだ蓑原氏にも明確な答えが出ていないようです。これは我々に引き継がれる大きな課題となるでしょう。

(高鍋剛/Jsurp理事(副会長)・株式会社都市環境研究所)

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