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5.僕たちは街と対話している −アフォーダンスとノイズ−

【全8回連載目次】
1. 我々は街をどう見ているか?
2. 人々は街で幸せになったか? −「感情の劣化」の問題−
3.「リアルな街」とは何か? −フュージョン体験と街−
4. 人間の尊厳と街との関係 −廃墟が魅力的な理由−
5. 僕たちは街と対話している −アフォーダンスとノイズ−(←今回)
6.俯瞰的に街を見るとは? −生態系の一部としての人−
7.街が立ち上がり、人が輝く瞬間 −文学やドラマが捉える街−
8. 我々は街をどのように見ていくべきなのか?


街に呼びかけられる?アフォーダンス理論

 前回の解説では、街に「世界」を感じることで尊厳が得られるという話をしました。今回は、私達が街とどのように「対話」しているかを考えてみましょう。
 「対話する」というと変に聞こえるかもしれません。例えばこんな経験はないでしょうか。あまり目的もなく街をぶらぶら歩いていたら、直感的に良さそうな飲み屋を見つけてしまった。入ってみると案の定良い店で満足した。あるいは、ぼんやりと考え事をしながらなんとなく歩いていると、普段はあまり行くことのない公園にたどり着いてしまった。そこにあるベンチがいかにも快適そうなので、コーヒーを買って暫くそこで考え事をした。
 このような行動を理解する助けになるのが「アフォーダンス理論」です。この理論は、アメリカの心理学者であるジェームス・ギブソンが提唱したもので、「情報は環境に存在し、人や動物はそこから意味や価値を見いだす」という概念と説明されています。アフォーダンスは英語の「アフォード(afford)」が、「与える」や「提供する」という意味から、ギブソンの作った造語です。
 この理論は解説書を読んでも非常に難しく、私も途中でくじけましたが、大まかにいうと、人は周辺の環境について主体的に行動を起こしているのではなく、そこにある様々な事物に呼びかけられて(コールされて)いるという考え方です。宮台氏の例えを聞いてみましょう。

 「アフォーダンス」「なりきり」などの語彙は、皆さんが知る語彙と違うかも知れない。だから有効性を例示します。僕は虫捕り好きだから、娘2人息子1人の修学前から虫捕りさせた。でも就学後一年もすると、娘2人が「女の子だから虫は無理」と言い出し、息子は「ゲームで忙しいからパパ1人で行きなよ」と言い出す(笑)。ところが、天体観測用の山荘の前にある虫だらけの牧草地に連れていくと、片っ端から虫を捕え始める。「おー、やっぱ虫捕り好きじゃん」「違うんだよパパ、体が勝手に動いちゃうの」。これがアフォーダンス。認知・評価・指令という環境情報を情報処理している訳じゃない。環界1)にコールされて自動的にレスポンスするのです。

宮台氏発言


計画されていない街の魅力:言語化できない世界

 私達は街に「呼びかけられて」行動しているのでしょうか。また呼びかけられているとすれば、どんな街が私達を呼びかけているのか、またその人によって良い街とはこのようなアフォーダンスのある街なのでしょうか。このセッションをコーディネートする野口氏は言います。

 本日語られたことの一つに、多様性や複雑性に関することがありました。魅力的なまちには、高低差があったり複雑に入り組んだ路地があったりします。これらは私たちの空間把握を混乱させ、先が見通せない世界を現出させます。そしてもう一つが、時間についてです。例えば、歴史的建造物のように変わらないものは、変わるものへの気づきをもたらします。また、自分が生まれる前の時間や死後に時間が継続することにも気づかせてくれます。そこに、計画に簒奪(しゅうだつ)されない自由が同時にあることが、私たちに呼びかけてくるまちに必要なことのように思うんです。

野口氏発言

 「計画に簒奪されない自由」と野口氏は言っていますが、古くからの道や建物がある街では人は時間を感じることができる、その時自由を感じると言っています。この感覚はなかなか言語化しにくいものですが、なんとなくピンときませんか?皆さんの街体験を思い出して下さい。宮台氏は言います。

 「言外に敏感であれ」というのも言葉。言葉にならないものを言葉でピン止めする必要がある。さもないと言葉にならないものを継承できず、文脈が変わった途端に忘却される。イチャイチャ次元として身体に関わるアフォーダンスと感情に関わるミメーシス2)を言挙げするのも、言外に反応する能力の継承を目指すから。

宮台氏発言

 つまり、言葉にならない価値を街や社会は持っているが、人間の身体と感情はそれを察知する能力があり、環境はその人間に働きかけているということでしょう。そして人としてその能力を劣化させず、鍛えること、都市プランナーはそれを喚起する都市空間を設計すべきと宮台氏は言います。蓑原氏は、宮台氏の師匠にあたる見田宗介氏の言葉を上げます。

 見田宗介さんという人が、こういう表現で語ってるんですよ。僕はこれが我々にとっては非常に大事なことだと思うんで、ちょっと読み上げますとね、「森や草原やコミューンや都市の空間で、我々の身体が体験している、あの形状することができない泡立ちは、同種や異種のフェロモン、アロモンやカエロモンたち、視覚的、聴覚的なその等価物たちの力にさらされてあることの恍惚、他なるものたちの力の磁場に作用され、呼びかけられ、誘惑され、浸透されてあることの戦慄の如きものである。」まさに我々の仕事っていうのは、そういう場所をどう作るかということになっていて、それが我々の役割だということですよね。

蓑原氏発言

 とても文学的な表現ですね。しかしこういうものの見方、感じ方が重要であるということでもあるのでしょう。

街のノイズと人

 最後に「ノイズ」の話をしたいと思います。適度にノイズがあることが人にとっても街にとっても重要であると3人は言います。宮台氏は言います。

 人は静かすぎる場所で不安になる。多少ノイズがある場所で安心する。人は整頓されすぎた場所で不安になる。多少カオスな場所で安心する。長い森の生活によるゲノムの傾きです。ノイズやカオスなら何でもいいのではない。ノイズミュージックがそうだけど、良いノイズと悪いノイズがある。ただ事前の言語化は難しいです。

宮台氏発言

 人が多少のカオスやノイズで安心するというのは、人間が本来持っている特性のようです。だから街にもノイズが必要であると。しかし、都市プランナーとして街を設計してきた蓑原氏は言います。

 我々はまちづくり論っていうのを議論するときに、どうやったらそういう多様性の中で発生するノイズが、街としての雰囲気を作り出すかということを考えると、例えば団地の設計をして、住宅だけ並べちゃうっていうのは、やっぱりノイズがほとんど発生しない構造ですよね。

蓑原氏発言

 そして、自身が関わってこられた街づくりの話に展開します。

 幕張ベイタウンをこしらえる過程に関与して、本当に麻布とか青山のような形で、下に店舗があって、上に住宅があるという形の街が、日本では成功しないもんだろうかという実験を一生懸命やろうとしたんだけど、結果的には見事に期待ハズレに終わっている。建物としては一生懸命みんながデザイナーの人たちと一緒に頑張って拵えてきたから、結構いい街並みになって、今もそれを守ろうという住民運動があるぐらい、住民は愛着を持っているんだけど、じゃあお店はどうなったかっていうと、最初入ってたようないいお店もみんないなくなっちゃって、あるいは追い出されちゃった。

蓑原氏発言

 なかなか上手くいかなかったのだということを率直に語っておられます。つまり、全面的に計画されていない街に生じる用途や機能の多様性、雑多性、人間の息吹が感じられるような魅力を計画的につくるのは難しいと言っているのですね。つまりそういうものがノイズだとすると、今の都市計画、プラニングの限界がそこにあるのではないかと。この話は第4回で廃墟の話をした際の計画性と自生性の話とも深く関係があります。

 さて、ここまでの回では主に人と街との関係を考えてきました。リアルな街とは何か、人はどのような街に惹かれるのか、そして人はどのように街と対話しているのか。それを考えるためには人がそもそも身体と心を持った動物であること、それゆえ、街との関係において我々は強い反応をし、影響を受けながら生きていることなどに関する理解が必要であると言えそうです。
 そこで次回以降は、我々は街をどのように見ていくべきなのかについて考えてみましょう。

<補注>
1)環界:自分の身体の外側にある世界。環境世界。自分の身体的な条件を除く全ての環境。
2)ミメーシス:直訳すれば「模倣」の意。人・物の言葉・動作・形態の特徴を模倣することによってその対象を如実に表現しようとする行為。

(高鍋剛/Jsurp理事(副会長)・株式会社都市環境研究所)

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