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4. 人間の尊厳と街との関係 −廃墟が魅力的な理由−

【全8回連載目次】
1. 我々は街をどう見ているか?
2. 人々は街で幸せになったか? −「感情の劣化」の問題−
3.「リアルな街」とは何か? −フュージョン体験と街−
4. 人間の尊厳と街との関係 −廃墟が魅力的な理由−(←今回)
5.僕たちは街と対話している −アフォーダンスとノイズ−
6.俯瞰的に街を見るとは? −生態系の一部としての人−
7.街が立ち上がり、人が輝く瞬間 −文学やドラマが捉える街−
8. 我々は街をどのように見ていくべきなのか?


日本にはそもそも尊厳という概念はなかった

 前回の話の中でリアルな街は人間の「尊厳」が支えられているという話がありました。では、ここで言う尊厳とはどういうことでしょうか。尊厳というと対人的関係性、あるいは社会制度で保証されている人の権利という解釈、イメージが沸きます。そして、尊厳と街には関係がどのような関係があるのでしょうか。この問題を考える前に、蓑原氏は日本では「尊厳」という概念はそもそもなかったと言います。

 僕の家は結核家族で、僕は子どもの頃から虚弱児童で、大学で喀血をして休学したりなんかしている。そういうこともあるし、子供ながら戦災体験があるものだから、未来が明るいというだけの近代化の理念にはついていけなかった。だから、人間の尊厳とか何とかいうことを一体誰が発明したんだ、人間なんて尊厳があるはずがないと思っていた。進化の過程でたまたま出てきてね、たまたまこういう形で進化してきたにすぎなくて、勝手に人間が自分を尊厳だと思っているだけだと思っていた。(中略)我々はもはや誰かから尊厳を与えられているとか、我々は尊厳があるなんていう自負心をまず捨てなきゃいけない。

蓑原氏発言

 蓑原氏は戦前生まれ、戦後に価値感が180度転換する時代を実感しています。そのため、民主主義も尊厳も戦後に定着した概念であると言います。そして、日本の戦後復興は経済の復興とともに急速に実施される必要がありました。このような過程の中では、街=人間の尊厳回復の場という発想は生まれなかったかもしれません。

 しかし、先の回の2人の幼少期の体験にもあるように、できあがった街が尊厳を支えられるかどうかというのは、このようなまちづくりの思想とはまた別の次元の問題のようにも感じます。つまり現在を生きる我々にとっても、すごく居心地が良いと感じられる街とそうでない街があるという事実があるからです。もう少し尊厳と街の関係を考えてみましょう。

人間の尊厳−入替不可能な「私」

 街と人間の尊厳を考える際に、宮台氏は「入替可能性」の話をします。入替可能性とは何でしょうか。

 孤独死が話題になったのは2004年。2020年から二年余りのコロナ禍を挟んで孤独死の件数は3倍増。(中略)孤独死は対人関係一般の空洞化を象徴します。2018年から話題になった「つながり孤独」。SNSのつながりが入替可能性を感じさせて孤独を募らせる事実を示します。戦間期に哲学者マルティン・ブーバーが述べた通りです。人は入替可能なソレ=replaceable itとして扱われると孤独を感じます。入替不能なアナタ=irreplaceable youとして扱われて初めて孤独を免れることができます。

宮台氏発言

 つながり孤独という言葉は近年話題になっている言葉なんですね。一見SNSで繋がっているように見えても本当の繋がりではない、実は孤独であるということのようです。つまり「イイね」をどれだけ獲得しても、人間としての深い信頼関係が得られているわけではない。孤独は精神を病ませ、排他的な人格形成をも促します。そして感情がどんどん劣化していくということです。

 例えばあなたが今、チェーン店でアルバイトをしているとします。そこには何十人ものアルバイトがいますが、ある時あなたは店長にこう言います。「そろそろアルバイトを辞めたいと思います。」店長は、「あ、そう」と返事をします。アルバイトは他にも沢山居るからです。この時あなたは「入替可能な人」であるわけです。
 一方、あなたは今ある地域でまちづくりの担い手として働いているとします。あなたは様々なプロジェクトに関与し、そこで多くの仲間をつくり、進めています。ある時あなたは仲間にこう言います。「そろそろここを離れようと思うんだけど」。仲間は言います。「そりゃダメだよ。君がいないとこのプロジェクトは進まないじゃないか」。この時あなたは「入替不可能な人」になっています。あなたの価値は、その能力や人格だけでなく、そこで形成してきた人脈とそれまでの歴史などの全てだからです。だから他の人がすぐに取って代わることはできない。少なくとも周りの人たちはそう思うということです。

 つまり「入替不可能性」とは街の空間というよりも、その街(場所)における人間関係やコミュニティと密接な関係があるということです。自分はここに必要な存在だと感じたとき、人はその空間が「場所」に変わり、自分の「居場所」であることを実感するのです。これが人の尊厳と街との関係ではないでしょうか。

「廃墟」に魅力を感じるわけ

 ところで、このセッションの中で「廃墟」の話が出てきました。我々は時折、廃墟に強烈な魅力を感じることがあります。廃墟の写真を専門とする写真家もいるぐらいですし、映画やドラマの題材になることもしばしばですね。

 場所の生き物としての全体性は、環境子の概念に見るようにアニミズムに関係します。アニミズムは万物に魂が宿るとするキリスト教的妄想ではない。万物に見られているという体験です。渋谷再開発から例を取ると、PARCOビルが三年前に新しくなりました。PARCOビルに見られてワクワクする、なんてことはあり得ません。ところが想像してみましょう。あそこが廃墟になった図をイメージするとPARCO ビルから見られる体験を思い描けます。なぜか。今世紀に入ってネットを含めて廃墟ブームです。そこにあがったイメージの大半はボタニカル(植物的)です。なぜ廃墟がボタニカルか。樹や森のライフスパンはヒトを含めた動物より長い。だからボタニカルな廃墟はヒトのスパンに収まらない。そこには計画性ならぬ自生性がある。だから「廃墟に抱かれる」。

宮台氏発言

 宮台氏は廃墟に魅力を感じる理由をボタニカル=植物的と表現しています。その意味は人知を超えたスパン、メカニズムを感じるからであると。そして、計画性と自生性という表現にも注目しましょう。計画性とは人間の計画=人知です。自生性は自然そのもの、人知が及ばない、人がコントロールできないことを意味します。つまり、そういうものに人は敬意を表し、圧倒されるということですね。宮台氏は更に言います。

 美学者の廃墟論やキャリコットの人類学的思考の教養があれば「ヒトの尊厳を支える街=フェイクならぬリアルな街」が何なのかは自明です。ヒトはルーティンの外に出て世界に抱かれていると感じると、力を回復してワクワクし、神経症的反復強迫を脱して感情的安全を得ます。これは進化生物学的に達成されたゲノムの傾きです。

宮台氏発言

 世界に抱かれると人は力を回復してワクワクし、感情的安全を得る。ここでいう世界は、人知を超えた世界=廃墟のようなもの、ということになります。今の街にそういう「世界」を感じることができるかどうか、ということを問いかけているのです。なぜ2人は冒頭で今の渋谷が人を幸せにしないと言ったのか、ここにもそのヒントがあるのです。
 それでは人は街とどのような「関係」を持ちながら生きているのでしょうか。次の回では「アフォーダンス」という概念を紹介しながら話を進めていきましょう。

(高鍋剛/Jsurp理事(副会長)・株式会社都市環境研究所)

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