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(短編小説)シイシイ


 シイシイは恋をした。
 
 17歳にして初めての恋だった。それは不意に訪れた。ほんの数秒まで彼のことも、ときめきさえ知らなかったのに、恋の矢は閃光のごとくシイシイの胸を貫いた。

「これ、誰?」

 昼休み、隣の席の男子が広げていたサッカー雑誌のページにシイシイは目を奪われた。そこには異国の選手がゴールを決めた写真があった。青いユニフォームと、後ろにたなびく茶色い髪。瞳を開いたりりしい顔つき。厚みのある口唇。右足を高く蹴り上げてシュートする姿は、まるで獣のように猛々しいのに、舞踏のようにしなやかだった。
 サッカーに詳しい男子生徒はその選手の名前を教えてくれた。言い慣れない発音だったが、シイシイは彼の名前をすぐに覚えた。そして馴染ませるように心の中で何度も繰り返した。

「ものすごく足が速いんだ。神がかりなプレーで、世界から注目されてる選手なんだぜ」

 その時男子生徒の友人がやって来た。彼は雑誌を乱暴に机に突っ込むと、
友人と廊下に出ていったが、急いで入れたせいか表紙が少しはみ出ていた。
 三角形に飛び出た角。シイシイはもう一度中身を、もう一度彼の姿を見たくてたまらなかった。だが他人の机の中に手を入れるのは、やはりためらいがある。こわごわと伸ばすものの、クラスメイトの目が気になって途中で引っ込める。だが逸る鼓動は止まることができなかった。
 
 放課後になってからパソコン室に行った。二十台ほど設置されていて、受付をすれば誰でも閲覧できる。
「あらシイシイ、珍しいわね」
 受付の先生がにっこりした。成績優秀で、テストは毎回必ず5位以内に入るシイシイだったが、家の手伝いがあり、普段は誰より早く帰宅する。勉強はいつもバスの中。一時間半も乗るため、そこで宿題や予習復習する。授業でパソコンは使用するが、個人的な目的で検索するのは初めてだった。
 椅子に座ったシイシイは深くゆっくり息を吐いた。アクセス内容は先生に監視されているので、検索ワードは気を付けなければならない。しばらく考えてから、慎重に入力した。
 
 帰りのバスで、こっそりコピーしてきたサッカー選手の写真を見ていた。
雑誌に掲載されていたのとは別のショット。彼はどの角度からでも格好よかった。逞しい肩幅や、締まったふくらはぎ。それはスポーツをしている男性特有のいびつな筋肉で、鍛えられた小麦色の肉体に我知らず高揚し、どこだか分からない部分が小さな爆発を起こしていた。
 どんな声で話すのかしら。どんな風に笑うのかな。ボールを追いかけるスピードはどのぐらいだろう…。コピー用紙の写真を飽きることなく眺めては想像を膨らませた。その名前を唱えるだけで、飲み込むのが惜しくなる、蜜のような甘さが全身にまで広がるのだった。
 けれど名前と所属チームしか知らない。制限のかかった学校のパソコンでは、情報に限度があり、遠く国のサッカー選手のことはほとんど教えてもらえなかった。貧しい村ではスマホの普及も遅れていて、持っているのはごく限られた者だけ。シイシイも見たことはあっても使ったことはない。なので彼の出身国のことも、世界地図と教科書でしか知らなかった。 
 約6000キロ離れた海に囲まれた豊かな国。それまで関心もなかったサッカーや未知の地への憧れが急激に上昇し、じっと座っているのがままならなくなっていった。

 シイシイの家族は八人家族。両親に祖父母。一番下はまだ二才の三人の弟がいる。いにしえの風習が色濃く残る農村では年寄りを敬うのがしきたりで、自分の子供が結婚したら、その家でもう隠居になる。仕事も家事もしない。ゆえに朝から畑に出ている両親に代わってシイシイが家のことと子守りをしていた。
 冬になればマイナス10℃が連日続く極寒の地。岩肌がむき出しの山の中腹にある七世帯だけの集落。電気もガスも水道も引かれていない。毎朝5時に起きるシイシイの最初の仕事は井戸までの水汲みから始まる。家族分の朝食作りも長女であるシイシイの担当だ。かまどに火を起こし、鍋で米を炊き、芋を煮て、放し飼いしている鶏の卵を集めて山菜と一緒に炒める。
 けれど幼い弟たちの世話に追われてシイシイはゆっくり食事をする時間がない。学校まで向かうバスは一本逃したらお昼過ぎまでないからだ。勝手に朝が来て、気付けば日が暮れる毎日。石造りの家は祖父母の部屋はあっても、シイシイや弟たちには与えられておらず、自分のことに費やせる時間は皆無だった。家族が寝入ったあとに、寝そべった布団で学校から借りてきた本を読むふりをしてページに挟んだ彼の写真を見ては、遥か彼方の国に思いを馳せるのが、しばらくのシイシイの楽しみとなった。
 
 その日もシイシイは慌ただしく家を出てから、山の細道を麓まで下りて、
土埃を撒き散らして走ってくるバスに乗り込んだ。町方面に向かうバスは本数が少ないためいつも人がたくさん。なんとか一番後ろの席に座り、上下左右に振動する未舗装のガタガタ道を走る代わり映えしない景色を眺めていた。前に座る人達の頭が同じように揺れていた。乗っているのは町に出稼ぎに行く人や畑で収穫した芋や豆を売りに行く農民たち。みな質素な服装を纒い、田舎訛りでがやがやと大きな声で話している。
 いつもの光景なのに、うるさいなと感じた。その時にふと、ここに暮らしていたら、やがて彼らのようになるのだと思った。他の世界を知らぬまま、
肌が褪せ、皺を刻み、枯れ葉色に染まる。衣食住を守るだけの日々。未来の自分の姿が白髪交じりの乗客たちと重なり、シイシイは思わず首を振って、膝に乗せた鞄をぎゅっと抱きしめた。
 
 町までやって来たバスは、市場と病院の前で大半の客がいなくなる。あんなに賑やかだった車内は閑散とし、最後はシイシイひとりになる。終点は駅だが、町中を行き来するバスと違って遠回りなルートを走るため、利用する人がいないからだ。アスファルトになった分、揺れは少しはマシになるが、バス自体が古いせいもあり、小刻みなバウンドは断続的に続いた。
 だあれもいない空席だらけのバスはもはやシイシイのためだけに走っていたが、それは同時にシイシイだけにしか必要とされていない、他の人にとってはなくてもいいもののように思えた。 自分はそれに毎日乗っている。メインストリートを大きく外れ、みんなの通る道を知らないままで。

 長い道のりを辿ってバスはようやく高校に一番近い停留所に到着した。
降車のボタンがない代わりに、乗車した時に行き先を告げるため、エンジンを唸らせたまま、ドアを開いて待っていた。けれどもシイシイは席を立たなかった。馴染みの運転手が不審がってこちらを振り向いたが、顔を伏せてじっとしていた。体が震えてるのは心臓のせいか、アイドリングのせいかは分からないが、こんなに時間を長く感じたのは初めてだった。
 やがてバタンと扉が閉まり、バスは終点の駅へと出発した。動き出した瞬間はっとした。明るい窓を流れゆく新しい風景。なぜだか涙が溢れてきた。鞄の中から、よれよれになった彼の写真を取り出してそっと問いかけた。
 
「今日だけ…。いいよね」
 
 私のゴールはここじゃない。いつか海を越えるんだ。シイシイは遠ざかる学校を肩越しに見つめ、ぽんと足を蹴りあげた。

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