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いいかげんで偽りのない僕のすべて ⑮


 親の目の届かない場所で、大学生という執行猶予に甘える。遊び惚けて自堕落しそうになる時、彼女の存在が僕を律してくれていた。次に会うときにだらしない自分にならぬようと襟を正す。いつも胸にあるロザリオ。僕に足りないのは彼女だと分かっていた。彼女が側にいれば僕はもっと優しくなれる。星野朱里という心臓部が整えば、温かく、血の通った、どくんと鼓動が弾ける言葉が生まれてくると信じていた。
 部屋に来た彼女と一糸まとわず抱き合えた時、卒業したら一緒に暮らそうと決めた。彼女が必要だった。僕の方が彼女を求めていた。
「愛してるわ」
 囁きをそのままに受け取った。信じきろうとした。それはきっと予感があったからだ。二十歳になったら打ち明けよう。そう思っていた矢先、先輩はボストンに留学すると言った。向こうの大学に通いながら、パラリンピックの出場を目指し、より良い環境でトレーニングしたいと。宇宙全体を見回しても反対する理由が見当たらなかった。もう一度走れと言った僕が、走り出した彼女を止められるわけがなかった。
「私ね、遠いと思ってない。飛行機でたったの十一時間だもの。映画だったら5本観てるうちに着いちゃうのよ。そう思えば案外すぐでしょ?」
 希望しかない笑顔。僕はさも素晴らしいように頷くしかできなかった。君と暮らしたかったんだと告げられず、彼女も僕に着いてきてほしいと言わなかった。「ありがとう」と何度も繰り返し、一週間後に旅立った。
 
 便利なSNS が彼女の近況を知らせてくれた。定期的にアップされる元気な姿。広大なトレーニングセンターのグラウンドで、スティックみたいな義足で走ってる写真。もう彼女に障害というハンデは存在しなかった。魔法なんかなくても足を取り戻した。太陽に負けない先輩の笑顔は、以前よりもずっと眩しかった。
「いつか金メダルを獲ります!」
 力強いツイートに「期待してます」とメッセージを送ったが、颯爽と駆け出し、もう追い付かなくなった彼女に、僕はこれでまたただのカエルに戻ったんだなと思った。誰もいない草原で北極星を眺めてるような静かな寂しさ。変わらない光への憧れだけが胸に残った。
 先輩の去り後、僕は止めていた煙草を吸うようになった。ひとりでいると無性に欲しくなった。ビルの合間に浮かぶ夕陽を眺めながらぼんやりと煙を吐いた。彼女を思う以外の全ての時間は気晴らしで、難解な本をひたすら読んだり、免許を取ったあと、成人の祝いで買ってもらった車で根なし草のようにひとりで旅に出たりした。こちらに来てからも花は飾り続けていたものの、気が付けば花びらが全部落ちてることもしばしばだった。一周回って、元の何にも興味のないつまらない自分に戻っていた。

 3年になる前の春休み、友人から呼び出された。シェアハウスに住んでいる彼女と同棲することにしたから引っ越しを手伝ってくれと頼まれたのだ。車があって暇な奴が僕しかいなかったらしい。後部座席の荷物を片付けてからシートをフラットにして、勝鬨橋近くの家に友人を乗せて向かった。
 わりと大きい一軒家だった。青い三角屋根にアイボリーの壁。女性専用のシェアハウスらしく、可愛らしい外観だった。ポーチの両側には小さな花壇があり、赤と紫のパンジーが咲いていた。
 引っ越し当時なのに、まだ荷造りが終わっていなかった。だってえ、と言う彼女に「なんだよもう」と友人は呆れながら、手伝うために家に入って行き「悪いけどちょっと待ってて」と僕に手を翳した。
 女の子ばかりが住んでいるからか、玄関はいい匂いがした。床は明るいライトブラウン。中古物件をリノベーションしたのか、どこもつやつやしてシミも傷もなかった。四人が暮らしてるというので、いろんな種類の靴がごちゃごちゃ置いてあった。勝手にどかすわけにもいかないので、軒下で待ちながら、出来上がった段ボールから車に積めていた時だった。
「やだあ、久しぶりい」
 荷物らしい箱を持っていた女の子が僕に笑いかけていた。一瞬分からなかったが、初音ちゃんだった。オーバーサイズの白いパーカーに黒いショートパンツで、前髪をちょりんと噴水みたいに結わえていた。えー!と驚くと「その顔ー!」と笑った。
「ゆみちゃんの彼氏の友達って健太郎君だったんだ。大学が同じだったからもしかしてと思ったけど、ホントにそうだった。あはは。嘘みたい」
 ラフな服装で、笑顔も手の振り方も変わっていなかったが、痩せて顔がシャープになったせいか、佇まいが大人っぽくなっていた。あの雨の日以来の再会だった。こんな偶然あるのか。けど、僕も近いうちに会えそうな気がしていた。根拠はないけれど、予感はいつも願望を呼び込むからだ。
「ここに住んでるの?」
 うん、と箱を床に置き「去年から」と答えた。
「ねえ、健太郎君また背が伸びたあ?」
 変わらず間延びする話し方で小首を傾げた。垂れた目が見つめてくると、吹き上げる風に一瞬にしてさらわれた。思いがけない再会が僕を自然と笑顔にする。気まずさより、また会えて嬉しい気持ちの方が勝っていた。
 僕らは約束を守っていた。合格の知らせもしたし「おめでとう」ももらっていたが、上京しても住所は教えなかったし、会おうと誘いあったりもしなかった。あの過去は遠ざかっても清算されない。なかったことみたいに上手に避けて濁す自分もいやだった。僕には僕の、初音ちゃんには初音ちゃんの生活がある。互いの圏内に入らないのが一番いいのだと物理的な距離を保っていた。
 だが別れた彼氏彼女ではない。会えばいとこにとダイヤルが戻る。僕はどこかで初音ちゃんともう一度仲良くしたいと思っていたのだろう。都合のいい変換かもしれないが、二年の月日がそれを許してくれてる気がした。
 結局荷造りが終わったのは到着してから一時間後。友人の彼女は初音ちゃんや他の二人の女の子といつまでも別れを惜しんで離れないので、さらに待たされた。同じ都内。電車で三十分の場所に移るだけなのに、女子特有の長引く儀式に、僕と友人ははやれやれと外で煙草を吹かした。
 
 初音ちゃんから連絡が来たのはその日の夜。翌日学校終わりに待ち合わせし、桜の名所の公園を散歩しながら二年の間の出来事を報告し合った。まだ五分咲きのソメイヨシノだったが、花見客もちらほらいて、カメラに収めるアングルを探して座ったり立ったりしていた。天気はいいが、風の冷たい日だった。
 初音ちゃんは高校卒業後に付属の大学に進学し、実家を出て今のシェアハウスに移り住み、医療福祉学科で臨床心理士になる勉強をしているのだと、持っていた教材を見せてくれた。
「健太郎君はどうして東大行かなかったの?せっかく受かったのに。叔母ちゃんも叔父ちゃんも喜んだでしょ?」
 コンビニで買ったペットボトルのミルクティーで手を温めていた。僕も開けてないホットコーヒーでお手玉していた。
「東大向きの人間じゃないから。自分の履歴書見た時に、大学名がピークなんていやだなって思ったんだ。未来に自由と伸びしろ与えたかったんだよ。まずまずの所でいい具合に埋もれたかったのかもね」
「まずまずなの?二大巨頭のひとつだよ。相変わらずご謙遜だね」
「ほんとはどこでもよかったんだ。どうせなら一番目指そうみたいなはっきりした目標が欲しかっただけで。親を喜ばせたかったってのもあるけど、実際毎日通うんだったら、もっと遊びたいなって。だから勉強にも遊びにも精通してそうなとこにしたんだ。この時期しか許されないなら、ザ・大学生みたいなことやってみたくてさ」
「へえ、健太郎君がね。遊べた?」
「そこそこね。でももう飽きた。部屋でひとりで本読んでる方が性に合ってる。ひと通り経験したけど達成感がなくてさ。夜出掛ける回数も減ったよ。初音ちゃんは大学どうなの?実家も出れたし、今は充実してる?」
「まあね。高校よっかはずっと楽しい。メンバーはあんまり変わってないけど。でもびっくりしちゃった。ずっと家を出たかったのに、出たら一ヶ月ぐらいでホームシックになっちゃてさ、毎日お母さんと連絡取ってたんだよ。自分で信じられなかったよ」
 二人で笑った。微笑ましいエピソードで初音ちゃんらしい。僕の知ってるままで安心した。会ってしまえば気兼ねない。話が弾み、地下にある多国籍料理の居酒屋で夕飯を食べ、初音ちゃんは所属するサークルの話をはじめた。複数の大学とNPO団体とで連携し、殺処分される犬猫の保護活動をしているという。
「人手が足りないから、時間ある時手伝ってくれない?」
 いいよと、新しい連絡ツールのアドレスを交換した。部屋で本を読んでるより価値のあることをしたかった。踊らないのにクラブにいるより、心が動くことをしたかった。意義があることでないとやる気が起きないので、実益のある保護活動はそれに相当していた。
 同学年の人達はもう就職活動の話を始めていたが、まだ三年生だし、秋ぐらいからでいいやと思っていた。僕はまだなんにもやりたいことがなかった。仕事内容どころか、就職したい企業の条件すらない。それはきっと会社勤めに抵抗があるからだ。自分が組織に属せる気がしない。
 上司、出世、接待、出張、転勤、左遷。恐ろしい二文字ばかりが浮かぶ。
全部馴染めないし、この言葉を日常的に使うようになる自分が想像できなかった。なので先延ばしにしていた。これを口にしてもいいと覚悟できる時まで。ぎりぎり足掻けるその時まで。


⑯へ続く https://note.com/joyous_panda989/n/nf4e295f6f93a


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