「芸術のことは自分に従う」小津安二郎の言葉を手繰り寄せてみる
読んだ時にはいたく気に入り、深く響いた言葉だというのに、メモをとることを怠ってしまったばかりに、ふとした瞬間に脳裏をよぎるのだが、一体誰の言葉だったかと考えあぐねてしまい、喉に引っかかった魚の骨みたいに、もどかしい思いを募らせてしまうということがよくある。
歳をとってから、なおさらその傾向は強くなり、もはやネット検索とAIチャットボットが手放せなくなってしまっている自分の現状を嘆きながらも、なんとかその記憶を手繰り寄せ、改めて目にすることとなった言葉たちとの再会は、ひとしお感慨深いものがある。
出会ってみると、そうだよ、あの人の言葉だよ。どうしてこんなことさえが思い出せなかったのだと、自分の記憶の不確かさに、怒りさえ通り越して呆れてしまうのだが、それはともかく、今ここに、日本映画界を代表する巨匠、小津安二郎の言葉がある。
調べてみると、出典は1958年に刊行された『キネマ旬報』8月下旬号のp.44-49の「酒は古いほど味が良い 『彼岸花』のセットを訪ねて小津芸術を訊く」の中で、p.49にこの言葉が出てくるとのこと(国立国会図書館HPより)。
さまざまな著作家が、自身の本の中で引用しているものだから、いつでも引っ張り出すことができると高を括っていたのかもしれない。この経験をきっかけに、メモは残しておくものだと戒めたが、おそらく次には、そのメモがどこにあっただろうかと、迷い道に入ってしまうであろうことは、目に見えている。
まあ、暫しそんな遠回りの経験をするのも、もしかしたら悪いことではないのかもしれないと思いつつ、改めて小津安二郎の言葉を見返してみると、小津の言葉は、私たちが、この社会で立ち回っていくための、心構えであるとか、意志のあり方を、状況に応じてしっかり区別せよ、と自分自身に命じていたものだと思えてくるのである。
「なんでもないことは流行に従う」は、当たり障りのないことは、共同体やコミュニティの決まりごと、世論に従いましょう、ということであろう。
当たり障りのないことは、風のように流れていくものだから、そんなに反発せず、抵抗せず、さらっといきましょう、という感じだろうか。
「重大なことは道徳に従う」は、国家における決まり事は、社会の安全性やひとりひとりの生活に関かかわり重大なことに違いないので、これらは道徳(モラル)に従いましょう、となる。
甲本ヒロトではないが、ルールというよりは、モラル(マナー)には従いましょう、それが他者との共生において、よりよく生きるための心構え。そんな風に私は捉える。
そして、「芸術のことは自分に従う」については、あくまで芸術、表現というものは、「この私」に関わるものである。「この私」に関わるものは、私の中での絶対的、普遍的だと思える規則、自分の「よい」か「わるい」かの、感情・意志に従おう、ということなのではないか。
二つ目までは、共同体や社会の中における、他者とのあり方を問うもの。
三つ目は、そんな社会の中においても、なお最後に信じるべきは「この私」なのだ、という自分自身の中での命令。
信念、とでもいおうか。
「表現」や「芸術」といった、本来、個の領域であるはずのものが、やたらと政治的なものや、社会的なもの、倫理的(俗に言われる倫理)なもの、と過敏に結び付けられ、「公」なるものが過剰に「個」を侵食したがる現代の風潮にあっては、小津の言葉は、表現者において、己を護るための格律になるであろうことを、改めて考えさせられることになった。
芸術や表現が、経済的なものと不可分であり、それゆえ社会性を不可避的に伴ってしまう、というのはもちろんそうだろう。だが、それでもなお、「この私」を貫く必要があるというのは、映画というジャンルが、商業でもあり芸術でもある二律背反の中での表現を追求する必要があった、映画監督、小津ならではの思いであろうか。
とはいえ、それはなにも映画に限ったことではない。文学であれ、絵画であれ、音楽であれ、<純粋な芸術>というものなど、もはやどこを探しても手に入れることができないイデアにしかすぎない、ということも確かだろう。
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