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私たちの世界はマトリックスの世界なのだろうか

 1999年に登場した映画『マトリックス』は、人類が現実だと思っている世界が実はコンピュータによって作り出された「マトリックス」と呼ばれる仮想世界であり、本当の現実世界での人間たちはコンピュータに支配され、眠らされているだけなのだという世界観を示し、話題となった作品である。

『マトリックス』が出るよりも以前に、批評家の柄谷行人は『内省と遡行』において、形式化を徹底した先には決定不能性しか残らないという問題に取り組んでいた。柄谷は病に取り憑かれていたかのごとく、世界の形式化に取り組むのだが、そこから軽やかに脱出していく過程が『探求』の仕事である。そのことは、『ヒューモアとしての唯物論』文庫版の解説で東浩紀が指摘している。形式化の問題は、ポストモダンが抱えていた病の一つでもあったのだ。

 最近また、「シミュレーション仮説」というものが話題になったりしているが、シミュレーション仮説の議論というものはどうしてこうも何度も繰り返されてしまうのだろうか。やはりわれわれは「形式化の病」から抜け切れていないのだろうか。

 シミュレーション仮説とは、人類が生活しているこの世界は、すべてシミュレーテッドリアリティであるとする仮説のことであるが、その際に前提とされているのは『マトリックス』のようなコンピューターとか、人類の知を超えた超文明人であるとかが人間に対してそういった仮想現実を見せているのだというストーリーだ。

 科学者(哲学者?)の中では、この世界が仮想現実であるかどうかは証明しようがないし、仮想現実ではないと反証もできないのだということを言っている者もいるが、これ自体は、じつは素材こそ違えど哲学史の中でずっと問われてきた問題でもあったりする。

 古くは、神の存在証明がそれであろう。私たちが生きているこの世界が現実であり、目的や意味があるものであるということの担保は、神という「絶対性」によって支える他なかった。だが、近代が抱えた問題は、そんな神自体の不在であり、神は証明できない、ということではなかったか。それによって、世界を世界たらしめる絶対的な「審判」「判断基準」というもの自体が喪失し、この世界に意味があるのかないのか、現実であるのか虚構なのかなどを、決定することができなくなってしまったのだ。

 シミュレーション仮説で出てくる超文明人とは、じつはこのかつての「神」という超越者の置き換え、バリエーションの一つにすぎないのである。この超越者を設定したとて、ではその超越者の決めていることが絶対であるかどうかを担保してるのは何か、そこには、さらなる超越者がいて、またその超越者の超越者がいて・・・と永遠に遡行できてしまうであろう。

 この循環こそが、柄谷行人がずっと形式における決定不能性という問題として扱ってきたことで、超越的立場(視点)というものはその形式(構造)から出ることはできない、という罠を作ってしまうということなのだ。『マトリックス』に出てくる超越者もまた、人間という主観が造り出す「表象」でしかないということから逃れられないのである。

 このシミュレーション仮説の問題を考えるうえで、哲学者のスピノザが参照になる。まずスピノザという人は、これまでの哲学者がずっと考え続けてきた神の存在証明の問題を、まったく異なるロジックで軽やかに乗り越えてしまったというのがある。ゲーテのように言うのであれば、「スピノザは神の現存在を証明するのではない。現存在が神であると証明するのだ」
言葉遊びのようにも見えてしまうが違う。スピノザにおいては哲学する方法が、これまでの哲学者とは違っていたということなのである。

 似たような言説はウィトゲンシュタインにもある。「世界に神秘はない。世界があることが神秘なのだ」と。スティーヴン・ホーキングもまた、かつて宇宙に対してこう問うた。「いったい何が、これらの方程式に火を吹き入れ、それによって記述されるような宇宙を作ったのか?」と。しかし、「数学的宇宙仮説からすれば、火を吹き込むことなど必要ない。なぜなら、数学的構造は、宇宙の記述ではなく、それこそが宇宙なのだから」。

 スピノザは、これまでの哲学者や宗教家がそうしてきたような神=超越者という見方を徹底して批判した。それら超越的な神は、人格神という人間が造り上げてきた概念でしかないのだと。スピノザにとって、神は証明するものではなかった。神とは、この世界、この自然そのものであり、われわれ人間という有限なる個物を規定する大前提の「現実」であるということだ。そして、神を神たらしめる理由は、神の存在そのものであるという「自己原因」を出発として神の定義をしていく。絶対的なものは、この神だけであり、この神とは、無限なる存在そのもの=世界そのものである、というのがスピノザの定義する神であった。

神とは、絶対無限の存在者、いいかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体のことである。(『エチカ』第一部神について定義六)

『エチカ』スピノザ/工藤喜作・斎藤博訳(中公クラシック)

 スピノザのこの「自己原因たる神」という概念が画期的なのは、世界の超越の不可能性を示したということにある。神(世界)を神(世界)たらしめるのは、神(世界)のみなのだから、神(世界)を規定するものはありえない。超越するものはありえない。スピノザが自己原因をまず持ってくるのは、この超越の不可能性を言うためである。そしてそのような神の観念のみが、決定不能性というトートロジーから逃れられる。

 むろん、スピノザの言うような神=世界だって、真実かどうかなど証明しようがないじゃないか、超越的な神がいないなどとは誰も証明できない。ゆえにスピノザのロジックも正しいかどうかなどわからない、という反論もありえよう。しかし、何が真理で、何が真実であるかという、「判断基準」を設ける議論自体が「形式化の罠」であり、そのような思考自体が人間の概念にすぎないということをスピノザは示しているのである。

 スピノザならこういうであろう。何が真理で何が真実であるかを決める基準などない。真理とは、この世界そのものなのだと。

 さて、シミュレーション仮説による世界というものが仮に本当にあったとして、スピノザならどう言うだろうか。と想像をめぐらしてみる。

 もし人間が何者かによって夢を見せられているだけなのだとしても、その夢こそが人間にとってのリアリティであるならば、それはわれわれにとっての事実であり、真理なのではないだろうか。

 だが、問題は、われわれにそんな夢を見せているのが誰か? ということである。むろんスピノザは、映画『マトリックス』のような超越者、創造主という考えは採用しないであろう。では一体「誰」が、われわれに夢を見せているのだろうか。ヒントは、スピノザ研究者である上野修の論考、人間ならざるものに向けての中にある。

こうしてわれわれは人間ならざるものの思考へと導かれる.「考える私」は消去されはしない.むしろわれわれの精神は字義どおり身体の真なる観念,すなわち恐るべきモノの真理として神という名の現実の中に存在している.だがスピノザによれば,精神は自分がそれであることを知らない.なぜならその真理を知覚しているのは,身体の産出と並行して身体観念を帰結する膨大な数の前提諸観念となった思考,人間ならざる自然の思考であって,当の真理である私ではないからである.われわれは自分を知らない真理なのかも知れない.スピノザはいつもそのことを思い出させてくれる.

「人間ならざるものに向けて」上野修/思想の言葉(『思想』2019年6月号)

私は人間である前にモノであり,その真理である.こういう人間ならざるものの思考にふれるとき,私は映画「ブレードランナー2049」のラストシーンを思い出さずにはおれない.レプリカントのKは束の間自分が人間なのかも知れないと信じそうになるが,やがてその幻想は破られる.天より舞い降りる雪の中,傷ついて横たわりながらKは初めて見るかのようにじぶんのからだに触れ,眺める.それが彼であり,彼はその真理である.そのとき人間ならざるものが彼となり,Kは自分がずっとそれであったところのレプリカントに,今なる.そこで彼が死を間近にしているとしても,真理に比べれば大した意味はない.自分はやはり人間ではなかったということの,息も詰まるほどの自由.喜びも悲しみも,人間になるという一縷の希望も,決して追いつくことのできない自由.「人間」はモノとしての脳がわれわれに見させる一貫した夢かもしれない.夢の中にいてもスピノザに倣ってそう考える自由はある.

「人間ならざるものに向けて」上野修/思想の言葉(『思想』2019年6月号)

 スピノザによれば、われわれ人間は身体というものを十分に知ることができていない。精神もまた十分に知りえていない。われわれは、何かよくわからないがモノとしての身体を生き、モノとしての私が、思考したり行動したりしているのである。このモノとは、人間の認識では完全に捉えることのできない<自然なる身体>ともいうべきものだろうか。あるいはカントがいうところの「物自体」としての身体ということであろう。

 われわれはどんなに認識能力や知を発達させようとも、自分の身体や思考が何をなしえているかを知らない。そのことは実生活に照らし合わせても痛感することであろう。思ってもみない場面で能力を発揮したり、発揮しなかったり、食欲や睡眠のタイミングをはかれなかったり、意識しないままに行動をとっていたり、些細なことでネガティブになっていたり、知らないところで病にかかってしまったり、われわれの身体はあまりにもアンコントローラブルなものであり、もし自分の身体を知り尽くしているという賢者のような人があろうとも、人間による自分自身の身体の完全把握、統制というものは、幻想の域を出ないであろう。

 つまり、われわれが知りえない「モノ」としての私がある。このモノとしての脳が、身体そのものが、もっといえばこの世界そのものが、私たちに夢を見せているのかもしれない、というのが上野修の考えである。しかし、そのモノとは、つまるところ、この世界そのものでもあるのだから、創造主でもなければ超越者でもない。言うならば、私というモノが私に夢(意識)を見せているという自己原因的な構造がそこにはある。それはこの世界の<内部>から出てくるものである。スピノザがシミレーション仮説を提唱するのであれば、きっとこのようなものになるのではないか。これはまさに、スピノザ的な、「内在的シミュレーション仮説」とも呼ぶべきものであろう。


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