宇宙は無数に存在する!?〜現代宇宙科学はどこまで行くのか~

PIVOTで配信された【宇宙は無数に存在する】UCバークレー 物理学者が完全解説がめちゃくちゃ面白かった。ゲストは野村泰紀先生。米カリフォルニア大学バークレー校教授の物理学者である。

私は昔から、宇宙論は大好物で、数学や物理学はまるでダメだが、最先端の宇宙理論などには惹かれてしまう。新書での宇宙関連の本も読んでいたし、科学雑誌『Newton』は定期購読していた。スカパーに加入してディスカバリーチャンネルやナショナルジオグラフィックも見るのが大好きだったのである。

マルチバースは15年くらい前までは、多重宇宙発生論というような言い方をしていたかと思う。まだ漠然とした理論であり、科学者の空想力を駆使した仮説の一つ、フィクションの一つという捉え方だったような気がする。

ただ、私はその当時から多重宇宙発生論に関心を持っていて、『科学と技術の諸相』のサイトを運営していた吉田伸夫先生にこんな質問をぶつけたことがある。2008年のことである。

現在の宇宙論では、宇宙多重発生論のように宇宙は複数存在し、また再生と消滅を永遠に繰り返すとも言われていますが、宇宙の複数性をどこまで考えますか?  仮に「この宇宙」のような世界が多様に存在していても、誕生や生成の原理が同じであれば、それは「ひとつの宇宙」とも言えるのではないでしょうか。宇宙とは全く次元の異なる世界としては、どのようなものが考えられるでしょうか。

『科学と技術の諸相』Q&A「2008年に回答した質問」より

この質問の意図としては、スピノザの「実体」の考え方、「神」の定義を念頭に置いている。有名なスピノザの「実体」および「神」の定義はこうだ。

実体とは、それ自身において存在し、それ自身によって考えられるもののことである。いいかえれば、その概念を形成するために他のものの概念を必要としないもののことである。(『エチカ』第一部神について定義三)

『エチカ』スピノザ/工藤喜作・斎藤博訳(中公クラシック)

神とは、絶対無限の存在者、いいかえれば、そのおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成り立つ実体のことである。(『エチカ』第一部神について定義六)

『エチカ』スピノザ/工藤喜作・斎藤博訳(中公クラシック)

「属性」というワードがあるので、「属性」の定義もついでに。

属性とは、知性が実体に関してその本質を構成するものとして認識するもののことである。(『エチカ』第一部神について定義四)

※訳者注釈・・・ふつう実体の属性とみなされている唯一性、無限性、永遠性などは、スピノザによれば実体の性質を表すものであって、それらは実体の本質を構成するものではない。属性は実体の本質を構成するものであり、しかもそれは実在とみなされている。この属性の数は無限に多くあるが(定義六を参照)、人間によって認識される属性の数は思惟と延長の二つしかない。

『エチカ』スピノザ/工藤喜作・斎藤博訳(中公クラシック)

何が言いたいかというと、宇宙は一つであれ、複数であれ、「この宇宙」という点では一つの実体であろうということを、質問の中に入れてみたのである。身体に細胞が何個あろうとも「この身体」は「この身体」でしかないように。

というような、柄谷行人が言うところの「無限」の扱いについて、科学者はどう考えているのだろうか、ということを訊いてみたかったのである。

先生の回答は次のようなものであった。

現代的な宇宙論で宇宙の複数性が議論されるのは、次のような論拠があるからです:

(1) もっともらしい基礎方程式に複数の宇宙が存在するような解がある。

1980年頃まで宇宙論の基礎として使われていた最も単純なアインシュタイン方程式からは、宇宙の複数性は導けません。しかし、素粒子論の知見を元にして真空状態の変化を記述する項などを付け加えると、母宇宙の微小部分がインフレーション的な急膨張を起こして、多数の宇宙が生成されるような解も存在することになります。この他にも、(母宇宙ではなく)われわれの住む宇宙の一部が新たなインフレーションを起こすという理論や、インフレーションとは別のメカニズムで多数の宇宙が生成したり、1つの宇宙が破壊と再生を繰り返したりする理論も提案されています。宇宙全体を記述する基礎方程式として何が正しいのかは、いまだはっきりしていませんが、有力な理論のいくつかが複数の宇宙の存在を支持していることは確かです。

(2) 実験および観測データは宇宙の複数性を否定しない。

宇宙がいくつも生成されたとしても、個々の宇宙は互いに相互作用をしていないため、「この宇宙」以外の宇宙を直接観測することはできません。ただし、多重生成のしかたによっては背景放射の分布に独特の揺らぎが現れるため、これを元に間接的に検証することは可能です。現時点では、宇宙の複数性は肯定も否定もされていません(一部の科学者は肯定的なデータが見いだされると主張していますが、多数意見ではありません)。

(3) 宇宙の複数性を仮定することで説明できる現象がある。

われわれが住む「この宇宙」には、素粒子の質量比など少なからぬ点で生命の発生に都合の良いように物理定数の値が定まっています。素粒子論によれば、こうした物理定数の多くは、ビッグバンの直後における真空の相転移がたまたまある形で起きたことによって決まるものであり、その値に理論的な必然性はないとされています。それでは、宇宙はなぜ生命を生み出すためにあつらえられたかのような器であるのでしょうか? この説明として、宇宙はきわめてたくさん存在しており、その中で生命を胚胎しやすい条件が揃った所にのみ知的生命が誕生し、「宇宙はなぜこうなのか」と考えているのだという見方があります。大部分の宇宙は生命の存在しない不毛の世界であるものの、そんな宇宙についてはそもそも認識する主体がいないという訳です。以上の論拠は、いずれも科学的な学説の当否を決めるにはあまりに薄弱ですが、少なくとも、この問題について議論をしてみる価値があると科学者に感じさせるだけのものは持っています。近い将来に議論が決着することはないにしても、科学者たちは一種の知的挑戦として宇宙の複数性について論じているのです。私自身は、積極的に宇宙が数多く存在するとは主張しないものの、その可能性は否定できないと考えています

一方、「この宇宙」とは全く異なる世界については、議論のきっかけになるようなかすかな論拠すら見いだされていません。時間と空間の枠組みを超越するような理論を提案できれば話が始まるのですが、今の段階では、科学者が取り組むだけの条件が整っていないと言わざるを得ません。

『科学と技術の諸相』Q&A「2008年に回答した質問」より

私の意図からは、ずれたものの、ものすごく丁寧にご回答頂けた。そして吉田先生から、「宇宙の複数性は否定できない」という言葉を引き出せたことに対し、私は異様な興奮を覚えたものである。

あれから15年近く。宇宙多重発生論、マルチバース理論はどのような進化を遂げているのか。この15年の間、宇宙論の本や新書はいくつか読んでいた。その際にマルチバース論は必ず最後の章あたりで出てくるのだが、どれも紋切型というか、やはりまだまだ想像の域を出ていないのだなあと、少しがっかりしていた部分があったのは確かなのだだが、今回の野村泰紀先生のお話には感銘を受けたし、本当にぶっ飛んだ。1時間半という尺の長さはあっという間である。

とにかく面白いのである。そしてマルチバースはこれまで机上の理論であったが、今後実証されないとも限らない、実験もできる、というところの解像度まで来ているようなのだ。

また、これまでマルチバースとは別に独自で構想されていて、これまた怪しいとさえ言われていたが、ある種の流行も見せていた「超弦理論」や「膜理論」も、この多重宇宙を説明できる原理の中に、「結果的」にマージされていたというような解説もあり、興奮が止まらなくなってしまった。

最先端の科学者たちが、世界の原理・物理構造を解き明かしていこうというプロセスにはすさまじいものがある。

私が多重宇宙論に関心を持つのは、そこには必ずスピノザ的な「無限」の問題が孕んでいるからだ。

たとえば、「宇宙を泡として見る」という考え方が、野村泰紀先生の解説にも出てくる。宇宙とは泡であり、一つ一つの泡には大きさはあるが、仮に外から見てどんなに小さい泡であっても、中にいる人にとっては無限の大きさである、といった内容の話である。

これは、すぐさま柄谷行人がスピノザにおいて捉えていた「無限の観念」と重なり合うのである。

「無限の観念」とは、順序や程度、数や量といった人間の概念とはまた異なる世界の捉え方である。スピノザは時間や空間は人間の概念であるとした。スピノザのこの無限の観念を持ち出さないと、先ほどの「どんなに小さい泡であっても、中にいる人にとっては無限」というのはイメージが難しいであろう。(私もイメージできているとは言い難いが・・)

とかく、多重宇宙論には知的好奇心をくすぐる内容に溢れている。

この多重宇宙論に限らず、現代科学における世界の解明には目を見張るものがある。

量子力学の発見においては、物質は単純な運動、メカニズムによって生成するものではなく、人間にとってはきわめて複雑で、偶然や確率的としか呼びようのない奇怪な振る舞いを見せることがわかった。

宇宙の大きさは、150億光年どころか450億光年へと拡がり、じつはそれすらも人間が観察できる範囲でしかなく、実際はもっと大きいのだともいわれる。ビッグバン理論においては、従来の物理法則では説明のつかない現象が発見され始めている。

惑星の数、銀河の数、あらゆる発見が、それまでの定説をくつがえしていく。世界に関する知は、どんどん書き換えられていくのだ。これはつまり、世界という知性がいかに無限そのものであり、人間の知性ですべてをコンプリートすることが不可能なまでの深淵を示している、ということに他ならない。

このような、われわれの定説や常識をくつがえすような新発見は、これからますます出現していくことになるであろう。そしてそのたびに、われわれは世界という「無限者」の顔を垣間見ることで、その途方もなさに打ちのめされ、畏怖することになるのだ。

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