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『灰色のダイエットコカコーラ(佐藤友哉著)』を読む 〜「覇王」への過剰なまでの欲動〜




中上健次以後の文学として

 
 1980年生まれの作家、佐藤友哉氏の作品『灰色のダイエットコカコーラ』を読む。タイトルからして、中上健次の『灰色のコカコーラ』のオマージュ作品であることは明らかである。

 
 また、本人自身も中上健次への影響を公言している。

 
 にも関わらず、恥ずかしながら、私はこれまで佐藤友哉氏の作品を読んでこなかった。

 まだ青臭い文学青年でしかなかった20代の頃、中上健次への思い入れが強かったあまりに、私は「中上健次以後」の文学、小説への関心を勝手にシャットアウトしていたのである。

 中上健次以後という文学史における自らの位置づけを強烈に意識し、かつ後継者としてもっともふさわしい書き手であろう阿部和重にでさえ、なかなか手がつけられなかったくらいである。

 今思うと、それらは私の感性の限界でもあり、無駄なバイアスをかけていただけに過ぎなかったのだが、本作品をリアルタイムで読めなかったことを今さらながら後悔している。私と同年代の作家であるにも関わらずである。

 そういう意味で、作品の同時代性というものがいかに重要かを痛感させられる。だが、逆に、時代を経たのち読むことにも、小説の醍醐味はある。 
 特に、時代や世相の変化に関わらず「普遍性」を持つ作品ほど、読む時代、時間によって輝きや強度を増す、という体験はありえよう。

 私にとっての、佐藤友哉氏の作品を読むという体験は、そのようなものであると信じている。少なくともこの『灰色のダイエットコカコーラ』においては。

 ※以下はネタバレ含みますのでご注意ください。


『灰色のダイエットコカコーラ』という作品について

 
 本作品は、四つの章において構成されている。それぞれタイトルがつけられれており、

「灰色のダイエットコカコーラ」
「赤色のモスコミュール」
「黒色のポカリスエット」
「虹色のダイエットコカコーラレモン」

となっている。あらすじについては、Wikipediaを参照頂きたいが、単行本の帯文にはこうある。

家族を笑え。恋人を捨てろ。社会人を見下せ。

――だって僕には“才能”があるんだ!

ロスト・ジェネレーション(失われた十年)を代表する記念碑的傑作がついに現れた! 「覇王」として君臨した祖父の高みに至るべく、「特別な自分」を信じ続けようとする「僕」。北海道の片隅で炸裂する孤独な野望の行き着く先は、「肉のカタマリ」として生きる平凡な人生か、それとも支配者として超越する「覇王」の座か?

――さあ、世界のすべてを燃やし尽くせ!

『灰色のダイエットコカコーラ』(講談社)より

 また、漫画家の押見修造氏とのコラボをした文庫本の帯文をそのまま紹介すると、こういう内容である。

かつて六十三人もの人間を殺害し、暴力と恐怖の体現者たる“覇王”として君臨した今は亡き偉大な祖父(そふ)。その直系たる「僕」がこの町を、この世界を支配する――そんな虹色の未来の夢もつかの間、「肉のカタマリ」として未だ何者でもない灰色の現実を迎えてしまったことに「僕」は気づいてしまう……。「僕」の全力の反撃が始まる――!!

『灰色のダイエットコカコーラ』(講談社・星海社文庫)内容紹介より

 
 本作が執筆された時期は、2002年からのようで、5年の歳月をかけて本作は書かれたという。時代としては、「ロスト・ジェネレーション(失われた十年)」とあるように、私が社会人として過ごした20代の時期、就職氷河期の時期にあたる。アメリカ同時多発テロ事件が起きたのが2001年で、アメリカの一国覇権体制=グローバリゼーションが、綻びをみせはじめる時代でもある。

 グローバリゼーションへの同化か、対抗か、ということで世相は分裂しはじめていた時代でもあった。日本国内においても、強者と弱者、勝ち組と負け組、という格差の構造が深刻化してきた頃である。本作品は、そんな時代において、書かれるべくして書かれた作品であったのだと、今の私には思える。

「覇王」=勝者になるか、「肉のカタマリ」=敗者になるか

 
 主人公の「僕」は、19歳。北海道の田舎町に住んでいるということを呪い、普通であることを忌み嫌う。近所の書店にはフォークナーが置かれていない。同級生は中上健次を知らない。「僕」もまた、何も知らない。柄谷行人を知らなければ浅田彰も知らない。フリーター。三流高卒である。

 フォークナー、中上健次、柄谷行人、浅田彰、この固有名をいきなり小説の中に出してくるあたりに、同じ時代を生きた私なんかは、いきなり親近感を覚えてしまうのだが、「僕」の住む田舎町には、そのような知的文化は一切ない。入ってこない。日本に見捨てられた町とさえ、作者は形容する。ただ、「物干し竿の大安売り~、二本で~、せんえん」のアナウンスだけが執拗に反復される・・。

 この「僕」は、あらゆる若者が通過する、社会への違和、反抗、現実逃避、東京への憧れという思いそのものを象徴している。「19歳」とは、まさに、そのような鬱屈と苛立ちと焦燥、あるいは倦怠と無関心、というものが集約される<特異点>ともいえる。

 この<特異点>において、多くの者は、無知、無関心と怠惰のままに過ごすだけなのだが、そうではなく、自己と他者を区別しようという者は、文学を、哲学を、詩を、音楽をやることでそれを実現しようとするだろう。また、ある者は暴走族のようなヤンキーになったりすることで、社会からはみ出した「自己」というものを表明する。もっと過剰にそれを求めようとするある者は、殺人や無差別暴力で主張するかもしれない。それらは、表現の手段がなんであれ、世界における何者かでありたい、特別な存在でありたいという思いでは、一致してしまっている。

 だが、主人公の「僕」には、それすらもなかったりするので、余計に苛立っている。詩も書けなければ、音楽もできない。学歴もなければ、殺人もできない。誰よりも苛立っている。
「僕」にとって、普通であることは、ただの「肉のカタマリ」になることであり、敗者になることである。

 そうではなく、支配者=勝者になりたい。そう、この町で、平凡な「肉のカタマリ」であることを唯一逃れている、祖父のような「覇王」=超越者になりたいと、「僕は」願う。

 祖父は、建設会社社長。実際に町を支配していたが、「僕」が6歳の頃に死去している。この祖父、戦時中も含め、63人もの人間を殺したことがあるという、めちゃくちゃな人物なのだが、「覇王」=支配者の象徴であり、町のヤクザとの戦闘における、祖父のフィジカル的な強さ、思わず目を覆いたくなるような過剰なまでの暴力描写は、<支配者=暴力装置>ということのシンボライズなのだろう。

 この祖父の存在は、かつて中上健次が、自身の紀州サーガにおけるピークとして世に出した『地の果て至上の時』において、資本主義の権化として描いた、主人公秋幸の実父、「浜村龍造」を想起させる。

 本作はタイトルこそ、『灰色のコカコーラ』のオマージュなのだが、作品を形作っているものは、『十九歳の地図』、『地の果て至上の時』などの秋幸三部作の、コラージュともいえる作品で、中上健次の作品世界を、この時代に反復させようという試みと捉えることができる。

 作中、この執拗に言及される、「覇王」になるか、「肉のカタマリ」になるか、という「僕」の葛藤は、そのままこの時代における格差社会の構造そのものの葛藤である。この資本主義社会において、支配する者になるか、そうではなく、平凡な普通な存在(普通の家庭、普通のサラリーマン)になってしまうか。勝者はこの世界における「意味」を獲得するものであり、敗者は「意味」を失った、ただの物質=「肉のカタマリ」でしかないというわけである。

灰色から虹色へ


 だが、覇王になることとは具体的にどういうことか、勝者になることはどういうことか、主人公もよくわかっていない。わかっていないから、現象としてはあるが実体のない、「虹」を探しているようなものである。

 だが、「僕」にとって覇王になることは、「意味」を獲得した世界、「虹色」の世界を手に入れることであり、「無意味」な「灰色」の世界からの脱出なのである。

 本作において、この「灰色」→「赤色」→「黒色」→「虹色」というのは、「僕」に映し出される世界の、<色彩の獲得>の進行過程を意味しているのだろう。

 「灰色」は「僕」の鬱屈した世界。

 「赤色」は、その鬱屈が放火、殺人や暴力、焼身自殺へと向かってしまう、友人の歪んだ世界。

 「黒色」は、祖父の過剰なまでの暴力性、裏社会や一般の家庭における「闇」の世界。

「虹色」は、覇王色。だが、その覇王色を探し求める過程で、さまざまに変化していく「僕」の心情そのもの。


「虹色のダイエットコカコーラレモン」


 本作がとりわけ重要なのは、「虹色のダイエットコカコーラレモン」であると思われる。もちろん、それまでの物語すべて、なくてはならない必要な要素なのだが、この最終章にて、主人公の「僕」は、ユカという死期が迫った女と、ハサミちゃんという子との奇妙な同棲生活をはじめ、疑似家族というものを体験していく。

 ハサミちゃんは、もともと「僕」の同級生で、世界に対して一切無関心である。小学生のとき、同級生に向かって、何の躊躇いもなくはさみを投げつけたのがあだ名の由来なのだが、そんなハサミちゃんは、「僕」とのセックスにおいて、子供をはらむことになる。

 そのことによって、ハサミちゃんは、人生の「意味」を、「僕」とは違うところで獲得していくのである。「僕」にとって、いまだに人生の意味は「覇王になること」であるから、自分の子供ができた、という事実を到底受け入れられないのだが、このハサミちゃんの存在、自身の子供、死期の迫ったユカとの関係性を通じて、次第に「僕」は、これまでさんざん忌み嫌っていたはずの、「普通な生活」へと傾倒していくことになる。

「僕」はやがて、この「普通の生活」を支えるために、土木作業員になり、労働し、サラリーをもらい、そのサラリーで、ハサミやユカちゃんとご飯を食べたり、ピクニックしたり、お風呂に入ったり、という生活が楽しいものへと変わっていく。

 本作は、中上健次の秋幸三部作をコラージュしていると指摘したが、まさに、中上健次の秋幸と同じように肉体労働に従事し、「日常」に染まっていく。秋幸が、「風景」=「物語」へと、いともあっさり染まっていく存在であったのと同じように、「僕」は、「日常」=「普通の物語」へと染まっていく。

 やがて、その「普通の生活」は、自身の子供との邂逅=出産の立ち合いへと向かっていくのだが、「僕」はもはや、「覇王になること」への未練は一切ない。「僕」は、違う意味での「虹色」という色彩を獲得していくのである。

 この出産シーン、「生」の過剰なまでの描写は、それまでのプロセスで出てくる凄惨なまでの暴力描写、「死」の描写との見事なコントラストをなしており、圧巻である。北野武も言っていた、振り子の原理だ。

 この最終章での、ある意味肩透かしをくらったような「僕」の転向。「覇王」になることの幻想から、「普通」になることの選択。あそこまで執拗にこだわっていた、勝者への想いは、一体なんだったのかと思わせなくもないが、しかし、この選択=描写は、あの時代を通過してきた、われわれには皮膚感覚でリアリティがある。この時代において、ぼくら日本人は、覇王になることも、覇王に対抗することもできなかった。「普通」であることが、きわめて現実的な選択肢であったと、今振り返れば思えてしまうのだ。


ダイエットコカコーラから、コカコーラゼロへ

 
 コカコーラが、肥大する大衆社会、資本主義の象徴であるならば、ダイエットコカコーラは、少し軽い、ライトな支配であるといえる。
 
 国家権力や資本主義は、「健康志向」や「正義」という体の良い名を冠しながら、自らの肥大化を正当化していくことであろう。それが、この時代に全世界にむけて進行していた「グローバリゼーション」であった。だが、そんな資本主義やグローバリゼーションの誤魔化し、カラクリに、社会は辟易した。格差社会や貧困の問題が、表現の世界だけで語るにはおさまらない、リアリティを持って日本国内における、われわれの生活において差し迫ったからだ。

 いよいよ「意味」にあふれる時代から、「非意味」になっていく時代過程を、われわれは、その後の過程として知ってしまっている。非意味というゼロ地点に、世界は明らかに逆行しているのだ。

 佐藤友哉氏が2000年代はじまりにおいて、描いた『灰色のダイエットコカコーラ』を経て、われわれは『灰色のコカコーラゼロ』が書かれるべき時代に突入してしまっている、ともいえる。


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