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いい人になろうとするのを、やめようと思う…。今は、内側に大切にしたい思いがあるのを感じている。


カエルは🐸はどこでしょう。本当に小さいカエルです。一匹だけって思っていたけれど、違ったね。そう、私はピンポイントで見るところがある。全体を見られていない。それでもいい。それが私だもん。できることをしようと思う。そのピンポイントの体験を沢山したら、少しずつ体験したことが繋がってくるよね。それでいいんだよ💗


前にも何度か書いているけれど、私は子どもの頃に「心の綺麗な人になりたい」と思っていたのです。その思いはずっとあって、人生の中で時々ふとその思いがどこからか思い出され、それが私の人生の指針のようになりこれまで進んできたように思う。

けれど、私はそれをやめようと思う。黒くて汚い面が沢山ある。暗くて同じこと何回も言ってて、ジメジメねちこい、性格悪い。めちゃくちゃ悪い訳じゃないけれど、ちょい悪で嫌な感じでもある。妙に回転が入って変なことを考えたりするところあるし、思いやりをもって寄り添うってことが出来ないかもしれない。未だ強い怒りを奥底に封じ込めてる。だからドス黒い面を私自身が認識できていないんだ。今は表立っては凶暴な私が出ることはないけれど、でもそれが奥底にあるんだなってことを何かあって実際感じて落ちることがある。コイツ、やべえなと思う。我ながら。

上下をつけたがって、有利に運びたいとサバイバル的に今もそれがあるのが分かる。心で妙な言い訳をして、そうして気づかないで人を傷つけることを言っていたり。それにふわふわな気持ちで知らんと傷つけることあるし…。それでもなんでか分かってなくて、ぽえ〜っと暢気にしているところがあって、自分でもなんやねん!!って思うのです。こうでないといけないって、自分を裁く私がいるから辛くなる。そこまで裁かなくてもいいのに、どうしても裁いてしまう。そうだから人のことも裁いてしまうんだよね。そうしている自分を認識することが大事だな。

人が傷つく理由が分からないのは、その時自分を脇に置いているからかもしれないって今思ったな。元より人の気持ちに寄り添う気持ちがあまりない?…なくはない。私だって人を愛する気持ちがある。周りの人が幸せならいいなって思うし、辛そうなら寄り添いたいって思う。…そっと見守る姿勢で寄り添うのが大事なんだって思うし。

謙虚ではない。尊重する気持ちが薄弱。思いやりに欠ける?優しさに欠ける?我が強い。自分が自分がになりやすい。それは自分勝手ともいう。やりたいことする。言いたいこという。本当に、ヤバい。でも案外自分をそうやって客観視していると思う。良い面よりネガティブやマイナス面に目が行く。人のことも自分のことも。いやいや、もっとお前は強烈だよって思われているかもしれない。気づかない強烈が奥底に眠っているかもしれない。多分ね、

けどさ、自分なりに気を遣ってるんだよ。誰か言わないなら誰かが言わないと…と思って発言することが多い。場を何とかしたいって思って、積極的に関わらないといけないみたいなんがあるように思う。誰かが言いだすまでそれまでの繋ぎとして話したり…。責任感強く真面目で一生懸命が自分だって思っていたけれど、本当はそんなことするのが面倒に感じること…ある。そう、一人頑張り過ぎも…。気づいたら浮いているってことよくある。全部ネガティブの反対も私にはある。いい面を同じだけ持っている。

自分のマイナス面ばっか書いたけれど、人の気持ちを大事にしたいって思いもあるよ。独りよがりかもしれないけれど、この問題を解決するに一番いい方法は何かって考えて行動してるつもりでもあって。いいも悪いもなく。人にはできるだけ優しくしたいって思うしさ。困っている人がいたら何か必要なら手助けしたいって思うし、そういうところは人並みに思ってるよ。

一件マイナスに取られそうな感情や行動も、その続きやその奥があったりするんだけれど、全部をその時に表現できるわけではなく…だから、そうだったらもうそのまま成り行きに任せて放置でいいか。人は自分の思いたいように思うから、私がどうこう言ってもそれは変わらなかったりするだろうしって自分から手放しして思うかな。

「いい悪いもなく」って、私よく書くけれど、私はネガティブに捉われやすい。それは人の感情の繊細なところが好きだからだって思う。自分自身の繊細なところを今の自分と織り交ぜて、そうして少しずつ癒している。

傷ついた繊細な面を今の私が少しずつ癒してる。学びたいって思ったのもそう。傷ついた繊細な感情に長い間捉われていた。それで何も進まなかったし、私には何もないなって思ったから何とかしたいって思って今自己認識している。自己認識して、私は私を知りたい思いが膨らんだ。そしてそれには知識を得ることの大切さを思った。

今日、そういった仲間と話をした。今、やっと自分の中の怒りに気づけたんだよって。これまで表に出してはいけないって思っていた部分。頑なにそれは駄目だって鉄の重い扉を閉めていた。だから見えなかった。感じなかった。でも、自分を表現することで、表わして行くことでそれがあるってやっと分かった。見えたから。やっと毛布の端っこ見つけた感じ…。あるんだなって。そして「ある」の確証に変わった。

そんな怒りだけれど、
「怒り」は、私を導く強いエネルギーでもある。ただただ無くしたらいいってもんではない。これも大切に扱いたい。今に導いてくれたんだから。

今、私はまた自分自身がなんなのか?何をしたいのか?分かっていない。しかし3年前にそう思った時とは確実にその感じ方が違う。あの時の「私には何もない」ではない。私には両親に愛された記憶もあるし、私には人を愛した記憶もある。愛の形も変わって、「ありがとう」って感謝の気持ちに変わっているのを感じている。そうして今は、内側に大切な思いが一杯あるのを感じている。



自分というものを知るって難しい。この世で何を表現したいのか?私はただ「あなたに出会えてよかった。ありがとう」って伝えたいんだと思っている。

「ありがとう」は感謝の気持ち。また今世でも出会えて「ありがとう」って言いたい。伝えたい。そうやってその人たちに出会うためのツールを探しているような気がしている。そのツールが私の得意とするもの。…とはいえ、得意なんて私にはないなと思ってしまう。それをやりたいからやっていたことが「好き」であるというならあるけれど、でも得意に及ばないものばかりな気がして…。またそれを表現するにあたってそこに至る人間関係が面倒臭くもある。面倒に思って動けないでいることも。だから止まる。

「止まる」それもいいなって思う。考え中ってことだから。考え中は、動く意思があるってこと。しんどい時はぼちぼちやったらいいんだよ。


人とのつながりや自分の表現方法に「調和」があれば随分違った私になる気がしている。


そういえばうちの娘は、人との関係で「調和」を大事にするらしい。
話そうと思うことを頭の中でシュミレーションして、この人なら何て言うかな?この人なら何て言うかな?と目の前の相手の人数分行って、そのシュミレーションでNOが出たら発言をやめるらしい。NOの時とは、誰かが嫌な思いをしたりするとかなんからしい。とにかくそうして調和を大事にするから発言を飲み込むことが結構あるみたい。また、シュミレーションをしているうちに話が流れるから言えなかったになるって。でもそれもすぐ忘れるから別にいいという。時には、本当に言いたいことがあってもなんとなく言えずに心の片隅にずっとあって、一か月半とか言いたいなって思いがあってもすぐ忘れてそんな感じで残るみたい。

そういうことで人との関係で喧嘩したことはないらしい。嫌な気持ちになることもほとんどなく、大概が聞き役になってるという。…おとなだな。私よりずっと大人。精神的にね。まぁ、タイプによるでもあるけれど、私はわちゃわちゃして賑わして、動きがあるのが好き。なんか食べる?作ろっか?これしようとか、これいいねー!!とか、これやる?!楽しそうとか。動きがあることを考える。娘は主に動かず答える人。だからうまくいく。

世の中、合う人と合わない人がいるのは、必然。全部私を表している。オセロみたいに受け入れている自分は色がある。薄い色からはっきりした綺麗な色まで。未だ受け入れられていない部分がほとんどで、茶色、グレー、ずず黒い色。赤の入った強烈な黒。黒に近い緑が入っていたり、濃い紫とか、いろいろ。多彩に濃くどす黒く表現されているのかなーなんて思う。その強烈なのを見てみたい気がする。

…ところで生まれたての赤ちゃんのうんちって母親でないとなかなか見たことないと思うのですが…見たことある人いますか?それは、胎便と言う。母親のお腹の中にいた時に溜まったうんち。これはとても粘っこくて、それも濃い黒に近い緑色。ガメラの血の方がだいぶ明るい。本当に黒に近い緑色。そんなうんち見たことなかったから、長男のそのうんちを見た時に感動した。そんなに臭くはなかったように思う。その胎便を思わすような粘っこさと色を私の怒りに感じた。見た人しか分からない世界ですね。しかし不思議な繋がりを感じる。

私にとって「精神的に大人になる」と思うとしんどい。そしてそう思っていると、そこからどんどん離れていく気がする。本来のわたしから…。だからその考えから離れようと思う。


何かあったら、その場から意識を遠ざけてみる。俯瞰してみる。「どうしたらいいかな?」って思って考える。表れてくることは、受け入れのチャンスでもある。できないことを神様は与えない。できることだから与えてくるのだ。…と、頑張ってそう思ってみるけども、受け入れたくないこともある。

神様がくれるチャンスを掴みたい。でも、そのチャンスも、うまくいかなくてもいいんだ。してみた。頑張ってやってみたというプロセスが大事。人の目を気にする私だけれど、人の目ではなく、プロセスを歩いたかを知っている私の目や心が私のことをよーく見ている。でも恐がらなくてもいい。いつも寄り添ってくれているわたしは味方。一番の味方なんだから、そこんところは自分に優しくしよ。(疲れたら寝よー。お風呂に入ろー。美味しいもん食べよー、ぼーっとしよーが、私のストレス解消法。書くこともだな。)

人それぞれだと思う。自分のプロセスにどう関わるか。苦しくても頑張るのが私。どんな時でもなんとか立て直して頑張るのが私。不器用だなって思う。隅っこから少しずつ少しずつ崩して行ってるんだと思う。本当に時間を掛けて。それが私だよ。どんどん先を行く人がいても、とにかく目の前の一歩を進もうとする。這ってでも。これは行けるーって思って進んでドーンと落ちることは、何度も体験したからもうやらない…。かもしれないと、付け加えよう。。。一歩ずつだ。

とにかく何度挑戦してもいいのだ。そうしてそんな自分を諦めないで共に心を味方に進むのだ。自分を見つめることで進めていく私の駒。繰り返しから螺旋を描いて行けるんだ。がんばれ、私っと。心のわたしと手を繋いで螺旋を歩く私がいる。


心のつぶやき…ながっ🍊
2024.08.12
読んで頂いてありがとうございました。



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