@えい

学生時代は某大学・文学部を卒業したものの、文学の学び直しをしたく現在は芸術系大学の文芸…

@えい

学生時代は某大学・文学部を卒業したものの、文学の学び直しをしたく現在は芸術系大学の文芸コースに在籍しています。趣味はギターで作詞歴が長く、中学の頃から書いています。 エッセイや短編は二十歳頃から書いていますが未だ半人前――只今ブラッシュアップ中です。

最近の記事

【エッセイ集】⑭小さな社交場

鉄板の上には、湯気が天井まで届くほどの勢いで、もんじゃ焼きが所狭しと焼かれている。 それぞれに、自分の前の鉄板に陣地の如く、隣や前方のそれにくっつかないように細心の注意を図りながら焼き進める。 紅生姜の赤が入ったものや、玉子で黄色みがかったもの、はたまたベビーラーメンを入れた茶色のものなど、様々な色を咲かせている。 東京の下町で過ごした子供の頃は、毎日がとてもスリリングであり、ときめいていた。 家から錦糸町方面へと住吉商店街を歩く……お菓子屋さんの前を通り、角にある大きな八

    • 【短編小説】Mother

      母は病弱だった。 よく入退院を繰り返していた。腎臓が弱く、それに伴う発熱で寝込むこともしばしばあった。 わたしが高校に入ってからは、精神を病んで薬をかかせない日々となり長期入院をした。 小学三年になって間もなくの頃だったと思う。母は勤めに出るようになった。それは、まだ幼かったわたしが一人でも留守番を出来る頃合いになった上での判断だと思う。 わたしには三歳年上の兄がいたので、それ以前でも可能だったのかもしれないが、末っ子で甘えん坊のわたしがそうさせていたのかもしれない。 母の

      • 【えい太郎ぅ!旧中山道をゆく!!】その④いよいよ群馬県へ突入!倉賀野〜安中へ

        倉賀野は中山道と日光例幣使街道の分岐点であり、その追分には道標があった。『従是―右 江戸道、左 日光道』と石柱には書かれている。 江戸道は、中山道江戸方面である。 つまり、ここから長野方面へ向かう人と栃木方面へ向かう人が分かれる場所だ。今回は私は長野へ向かっていく。 また、そこにあった立派な常夜灯の基台には多くの寄進者の名が連なっていた。 この地は文献によると河岸場があって、年貢米や信州・上州産の煙草や屋根板、砥石などが舟で江戸に運ばれ、帰りは行徳の塩や干鰯を積んで戻ったとい

        • 【えい太郎ぅ!旧中山道をゆく!!】その③深谷・本庄

          深谷宿に降り立った。 まず常夜灯が迎えてくれる。熊谷宿は飯盛女を置かなかったため、深谷には多くの女が集まり大変に賑わったそうだ。いつの時代にも女性の多いところには人が集まるものだ。 今は本陣跡の碑や脇本陣跡が往年を偲ばせる。深谷といえば『渋沢栄一』の出生地だが大きな銅像が北口駅前に鎮座していた。恥ずかしながらこの時には名前くらいしか知らずにあまり注目もしなかったが、いよいよ今夏より壱万円紙幣でお目見えする。後日、大河ドラマを見てその偉業の数々に大変驚愕した(汗)。 町内には洒

        【エッセイ集】⑭小さな社交場

        • 【短編小説】Mother

        • 【えい太郎ぅ!旧中山道をゆく!!】その④いよいよ群馬県へ突入!倉賀野〜安中へ

        • 【えい太郎ぅ!旧中山道をゆく!!】その③深谷・本庄

          【母に宛てた最期の手紙】

          僕も白髪が気になる歳になりました 母さん、あれから随分と月日が経ちました いつまで経っても朝帰りの僕に いつしか愛想を尽かして 出て行った妻と娘たち 随分と広く感じるようになった部屋に 残されていた赤いマグカップ シンデレラのポスター 小さくなった数本の鉛筆 テーブルの上にあった置き手紙は とてもあっさりとした さよならの文面 休まずに向かった職場での一日は 笑うことの出来ない長い一日でした 家に帰って 部屋が四つもあったことに戸惑い 一部屋、一部屋巡っては ため息

          【母に宛てた最期の手紙】

          【えい太郎ぅ!旧中山道をゆく!!】その②いよいよ埼玉県へ蕨~浦和~大宮~上尾~桶川~鴻巣~熊谷

           この先の戸田橋から荒川を越えるといよいよ埼玉県へと突入する。 次の宿場町は「蕨宿」だが、この先の「浦和」「大宮」はいまや大都市で、旧街道の面影は乏しく、電車利用をしてワープすることにした。 上尾に到着した。上尾宿の中心地は現在の駅周辺だったとある。 駅前には「氷川鍬神社」があり、その前にはかつて本陣や脇本陣などが立ち並んでいた。 今や周辺はビルがほとんどであり、神社のみがその当時を残しているように見えた。 旧道をすすむと桶川宿に入る。 桶川駅周辺の旧道沿いには古い商家が軒を

          【えい太郎ぅ!旧中山道をゆく!!】その②いよいよ埼玉県へ蕨~浦和~大宮~上尾~桶川~鴻巣~熊谷

          作詞【裏表紙】

          たとえば 寝返りをした時に目醒めた朝の カーテンの隙間から 射し込む 道の向う側に 不安と苦悩が渦巻いてる 夢での話の中に もう一度割り込もうと もがくのに 覚醒された現実の今に 引き戻された 秋晴の9時45分 こんな歪んだ 都会の狭間の ちっぽけな空間から 何を思い見つけられるだろう 積み上がった本から はみ出た栞のように 押し潰されて ワイプアウトして それでも君に 辿り着けるか 目に映る表面だけの 心にある本当の姿に 人はなかなか 辿り着けない 魔法が切れるまでの

          作詞【裏表紙】

          【えい太郎ぅ!旧中山道をゆく!!】その①日本橋からスタート~本郷…巣鴨…板橋宿

           さあ、長年の夢だった「中山道」を歩く旅をはじめる。 この旅行記は今になり、わたしが実際に歩いた45歳の頃を思い出しながら書いた手記である。 さて出発点の日本橋に降り立った。 五街道(中山道・東海道・甲州道中・日光道中・奥州道中)の基点となる「日本国道路元標」が橋のたもとにある。 日本橋は慶長8年に徳川家康が江戸の町割りをおこなった際に架けた橋だ。近くにあった河岸からは全国から船で運ばれた物資や魚が陸揚げされ、周辺には伊勢や近江、京都に本店を置く江戸店(えどだな)が立ち並ん

          【えい太郎ぅ!旧中山道をゆく!!】その①日本橋からスタート~本郷…巣鴨…板橋宿

          【エッセイ集】⑬彼女が髪を切る間に眼鏡をつくりに行く

           彼女の美容院に付き合いながら街に出た。 終わるのを待つまで二時間くらいかかるという。その間で買物をすることにした。駅から五分ほどの場所にある巨大なショピングモール……時間をつぶすのにはもってこいだ。 歩道橋から直結の2階から入ると、すぐの所に眼鏡店Jがあった。前々から眼鏡を作り直そうと思っていたので丁度いい。まだ午前中で、店内は空いていた。私がいくつかの眼鏡フレームを試しにかけていると、女性店員が「今なら待たずに検眼出来ますよ」と言うではないか。 「眼鏡を作るとどれくらいで

          【エッセイ集】⑬彼女が髪を切る間に眼鏡をつくりに行く

          【エッセイ集】⑫「みなせん」での一夜の出来事

           北千住からJRで一駅、南千住の街に降り立った。 「きたせん」にはよく行くのに、「みなせん」へはまったく行ったことがなかった。 駅の改札口をでてガードをくぐり抜け東方向に進むと正面に大きな鉄門が見えた――それはかつて横須賀でみた米軍基地の入口門のごとくとても大きな、見る者を圧倒する迫力で侵入者を拒んでいる。その巨大な門構えには「隅田川駅」と書かれた大きなJRの看板があった――「隅田川駅?」 はじめて聞く名だ。その奥には何重にもひかれた線路が見える――「引き込み線かあ」と彼女

          【エッセイ集】⑫「みなせん」での一夜の出来事

          29日【肉の日】に290円でステーキを食す!

           今日は5月29日、世間的には語呂合わせで『肉の日』だ。 わたしはこの日に度々、上野へ出かける。ひとつの目的はステーキを食べること――肉の日にかけて、なんと290円にてステーキやハンバーグを食べることが叶う日なのだ。 さらにカレーライスも同額であり、ステーキとカレーライスを食しても580円とほぼワンコインに近いのである。 この物価高にもかかわらず信念を貫いている店側の心意気には敬意しかない――頭が下がる思いだ。しかしながら、食す方もそれなりの覚悟をもって望まなくてはならな

          29日【肉の日】に290円でステーキを食す!

          【エッセイ集】⑪鬼怒川のおばあさん〜蛇いちごの畦道

           幼少の頃、鬼怒川にあった「おばあさん」の家に遊びに行くのがとても楽しみだった。 「おばあさん」といっても、わたしのおばあさんではない。正式にはわたしのおばあさんの姉にあたる人であり、わたしのおばあさん――つまりわたしの母の母上は、宇都宮に住んでいた。 鬼怒川のおばあさんは四人兄弟の長女で、巨漢でありアメリカ映画に出てくる「ビッグ・ファット・ママ」のような貫禄をそなえていた。宇都宮のおばあさんは次女であり、若かりし頃は「原節子」似と言われてかなりモテモテだったらしい。三女が

          【エッセイ集】⑪鬼怒川のおばあさん〜蛇いちごの畦道

          【エッセイ集】⑩レストラン*ミクニ

           大人になってからの誕生日は普遍的で、あまり記憶の奥に折りたたまれるものは少ない。今から思えばすばらしく華やかで豪華なものではなかったのかもしれないが、幼少の頃の誕生日の記憶はセピア色の思い出の中で、脳裏に焼き付いている。 我が家では兄弟二人の誕生日とクリスマスには決まって食事に出かけたレストランがあった。自宅から子供の足で歩いて二十分近くもかかった――まだ小さかった私にはとてつもなく遠い場所にあるレストランだったはずだが、なぜか、ここへいく時の心の高揚や父母と手をつないで

          【エッセイ集】⑩レストラン*ミクニ

          【エッセイ集】⑨京都・河原町通

           川に沿ってすすむ道が好きだ。鴨川と寺町通に挟まれた南北にのびた道――北は鴨川デルタの近く葵橋を渡る。ここは川の合流手前なのでまだ「賀茂川」だ。その少し先には出町橋がかかっている。通り沿いすぐのところには、いつも行列が並んでいる「出町ふたば」がある。ここの豆大福は絶品であるが、市内には甘味の絶品は数多くあるのであげれば切りがない。商店街の入口に近いこの場所は、活気のある雑踏と様々な食品の匂いが入り交じるが、それを鴨川からの川風が爽やかに入れ替えてくれる。 高野川と合流し、は

          【エッセイ集】⑨京都・河原町通

          【エッセイ集】⑧ハミングバードのアコースティックギター

           私とギターとの出会いは小学校に入って間もなくの頃まで遡る。正確には生家には父のクラシックギターがかつてよりあったが、それは壁に掛かって「ほこり」をまとっており、まだ小さかった私には「それはいつもそこにある単なる静物」としか認識していなかった。 私はその頃、八歳になっていた――ある日、祖父が大きなギターケースを抱えて帰ってきた。私の生家は父方の祖父母と長男である父、私の母、兄と出戻りの父の妹とその娘姉妹の九人家族の大所帯であり、更に週末ともなるとその「本家」に父の妹弟たち六

          【エッセイ集】⑧ハミングバードのアコースティックギター

          【エッセイ集】⑦二〇一八年頃の京都・左京区、私とカラオケとバンド

           今、私は五十八歳のクリスマスを迎える直前にこのエッセイを書いている。このごろは、月日がまるでリニアのように、とんでもないスピード感で過ぎ去っていく。この話は私が二〇一七年春から二〇一九年春にかけて過ごした京都での出来事だ。 京都で暮らすのは二度目だった。最初は、一九八九年四月の山科だった。大学を卒業して新入社員で入社したデベロッパー会社は希望どおりホテル・リゾート部門に配属された。新人研修先は河原町三条にあったシティホテルで、ここの各セクションでホテルでのノウハウをまずは

          【エッセイ集】⑦二〇一八年頃の京都・左京区、私とカラオケとバンド