見出し画像

【えい太郎!旧中山道をゆく!!】その②いよいよ埼玉県へ蕨~浦和~大宮~上尾~桶川~鴻巣~熊谷

 この先の戸田橋から荒川を越えるといよいよ埼玉県へと突入する。
次の宿場町は「蕨宿」だが、この先の「浦和」「大宮」はいまや大都市で、旧街道の面影は乏しく、電車利用をしてワープすることにした。
上尾に到着した。上尾宿の中心地は現在の駅周辺だったとある。
駅前には「氷川鍬神社」があり、その前にはかつて本陣や脇本陣などが立ち並んでいた。
今や周辺はビルがほとんどであり、神社のみがその当時を残しているように見えた。
旧道をすすむと桶川宿に入る。
桶川駅周辺の旧道沿いには古い商家が軒を連ねている。ここまで来てやっと往年の旧街道らしさを感じられる景観と出会えた。
まずは「中山道宿場館(観光案内所)」で情報入手をするこことした。中山道についてのパンフレットがありとても重宝した。このあたりはかつて武州紅花の特産地で、その仲買問屋などが建ち並んで大変に栄えたという。旅籠だった武村旅館、麦・紅花を扱った商家――島村家の3階建て土蔵は国の登録有形文化財だ。
大雲寺へも向かう――ここでは散歩の途中であろうか?地元のおじいさんに出会い、話を伺うことができた――「女郎買い地蔵」については色々な言い伝えがあるという。一般的には「夜な夜な女郎買いに出る地蔵を和尚が鎖で縛り、柱に打ち付けた」とあるが、じつは遊び好きで帰ってこない亭主を和尚に頼んで地蔵に縛り付けてもらったという話が有力説だという。境内にある「六角地蔵(石柱)」は奈良時代に最も流行した石碑だという――また当時は「桐生・根元山詣」にいく人が多数いて、帰り道は利根川から船に乗って帰ってこられるので大変に流行ったそう。楽しそうに、また少し得意そうに語るおじいさんの深いしわの中にある笑顔が印象的だった。
さらに歩をすすめ「鴻巣宿」方面へ――ここは江戸時代から雛人形の産地として有名で栄えた。昨年オンエアーされていた深夜ドラマ「埼玉のホスト」にも「ひな人形の街・鴻巣」の看板が大きく掲げられていたのを思い出す。
江戸時代には鷹狩りを好んだ徳川家康が鴻巣に御殿を建てて度々かよったとのことだ。

吹上まできた――「ゼリーフライ毎日あります」と書いている堀澤食品がとても気になった「ゼリーフライってなんだ?」
あとで調べてみると「じゃがいも・おから等を混ぜて揚げた野菜まんじゅう」とある――小判型であることから「銭フライ」がなまって「ゼリーフライ」になったとか。歩をすすめ食べなかったことが悔やまれる、次に訪れた際は必ず食べよう。
行田から熊谷まではひたすら荒川土手沿いを歩く。6月初旬の川風は心地よくも日差しはすでに夏を感じるものであり、歩き続けるのを拒む。当時、往来の人々も「笠をかぶってここを同じように歩いたんだなあ」と思い浮かべながら、土手に腰掛けて小休止――水筒からゴクリと飲んだ。
今晩は熊谷のビジネスホテルに泊まる――もう一歩のところまできた。
荒川土手沿いの道から熊谷駅方面へむかう途中のきれいな梅花藻の流れる小川で「ムサシトヨミ生息地」の看板を見つける。「どんな魚なんだろう?」
その近くには「ムサシトヨミ保護センター」があり、中に入ると大きな水槽のなかでたくさん泳いでいた。
「こんな魚なんだ!」
3cm程度の少し平べったい魚でとてもかわいい。チロチロと泳いでいる。
環境省のレッドリスト・国の天然記念物に指定されている貴重な淡水魚とある。この元荒川の上流部が世界で唯一の生息地だ。偶然にも旅の途中で出会えた新知見だ……これだから「歩」の旅はやめられない。
今日はかなり歩をすすめ約6時間、27km目標の道のりを完歩した。
ホテルに到着して部屋でシャワーを浴びると、日差しをまともに受け続けていた半袖シャツから出ていた腕がヒリヒリと痛んだ。赤くほてったその腕を濡れタオルで冷やしながら、今日一日の行程を思い出し、先程駅前で買ってきた弁当を机で食した。
【参考文献】中山道を歩く旅 山と渓谷社 2008年

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?