見出し画像

【エッセイ集】⑭小さな社交場

鉄板の上には、湯気が天井まで届くほどの勢いで、もんじゃ焼きが所狭しと焼かれている。
それぞれに、自分の前の鉄板に陣地の如く、隣や前方のそれにくっつかないように細心の注意を図りながら焼き進める。
紅生姜の赤が入ったものや、玉子で黄色みがかったもの、はたまたベビーラーメンを入れた茶色のものなど、様々な色を咲かせている。

東京の下町で過ごした子供の頃は、毎日がとてもスリリングであり、ときめいていた。
家から錦糸町方面へと住吉商店街を歩く……お菓子屋さんの前を通り、角にある大きな八百屋を過ぎるとコンクリート製の都営アパートが見えてくる。全体的にグレーの壁色で、少し古びて壁の所々にひび割れの補修跡が見える。
4階建ての階段を上がると、「ロの字型」に造られた建物のそれぞれの廊下が内側に面していて、少し錆びた鉄製の柵越しに公園が見下ろせた。
この公園を私たちは通称「アパート公園」と呼んでいた。
正式な名称は思い出せないが、確か都営◯◯◯公園といい、その◯の中は地名だったと記憶する。
今日もこの公園に来た――お目当ての「どっこい粘土」をするためだ。
いつもの場所に、いつもの親父が店を広げていた。
公園の中心にある植込みを背に、そこに腰掛けた親父を取り囲むように、様々な「型」が地べたに並べられている。レンガ色の四角いそれは、大きな物は30cm四方もあるだろうか――いや、もっと大きな超特大サイズもある、小さなものは5cm程度か。「型」とは、粘土をそこに押し入れて様々な形を作るもので、魚や鬼面、ひょっとこ面や動物などがある。押し入れたものを丁寧に型から出すと、その動物などの形になった粘土が出来上がった。
更にそこに、親父が販売している様々な色をした金粉を、出来上がったものの表面に振りかけてから指で丁寧になすりつける事で、虹色に輝く魚などが完成するのだ。
「ほーい!どっこいどっこいどっこいねんど〜はい、坊やちゃん、おまけ〜」親父の小気味いい売歌リズムに乗って、その手で棒状に分けられた粘土が売られた。粘土は少しくすんだ色をした茶色で、ひとつかみ程度の棒状のものが確か10円程度であり、小さく折りたたまれた新聞紙の中に入った各色の金粉は一つ20円だったと思う。型は最も高く、小さなものでも50円程度はしたと記憶する。
出来上がって色も付けたものを、親父に見せると、お多福顔の印が押された紙片を貰える――親父の採点の良いものには何枚も貰えるのだが、大きな型のもので無ければそれは叶わない。その紙片は現金と同じく、粘土や金粉と交換出来る仕組みだ。
評価の後の粘土は、親父の手によって握り潰されて捨てられる。再利用は出来ない。さらに、この粘土は一日過ぎると硬くなってしまう――今思えばよく出来た仕組みだ。
お多福紙片が、大分と貯まって大型の型への交換にそろそろ手が届きそうになった頃、親父の店はいつも忽然と姿を消した――そして、随分と時が過ぎた頃にまた現れるのだが、その頃にはお多福紙片も何処かに無くしてしまっていた頃だった。
この「型」作りに日長熱中した――砂場を取り囲む石枠の上を台にして、出来上がった粘土を並べた。
喉が渇くと、公園を出たアパート裏側の一階にあった駄菓子屋に行った。店内には天井から、おびただしい数の商品が吊り下げられている。何があるか眺め回すだけでも時間がかかる程だ。「おばけのシール」「リリアン」「ウルトラマンカードくじ」「謎のケムリが出る紙」
その下には木枠のガラスをはめ込んだケースの中に、いろんな色の駄菓子が並ぶ――船を模したウエハースの中にラムネや小さなおもちゃの入ったもの、ストローを差して吸うとラムネ粉が出てるく瓶型のウエハース菓子、割り箸についた丸いきな粉飴。
その奥には、少し貫禄のあるいつものお婆さんが鎮座している。
このお婆さんは、近所に数ある駄菓子屋の中でもあまり愛想が良くはなくて私は好きではなかったので、
そこでたまに買うのは「ちびっこコーラ」くらいのものだった。
公園に戻ると、笛の音と共に「紙芝居」が来た。遊んでいた子供たちがいっせいに集ってくる。
白髪髭混じりのほっそりとした馴染みの親父だ。
黒く頑丈そうな自転車の荷台には年季の入った木製の紙芝居を乗せ、その下方にある三段程の小さな引き出しからは、魔法の如く様々な駄菓子が詰め込まれていた。
前籠には、大抵「焼きそば小」が小分けされたビニルに何個も乗っている。
「親父〜噴水!」
何処かの子が注文をする――すると、茶色く陽焼けした皺の目立つ手で引き出しから割り箸や、ミルクせんべい、三角ウエハースや蜜飴などを取り出して器用に「噴水」に模した駄菓子をこしらえた。
この手際を一心に見る「二十四の瞳」が、束の間の静寂を生んだ。
私はもっぱら、お腹が空くと「揚げ玉」20円と「焼きそば小」30円を買ったものだ。揚げ玉は丸型のウエハースに入れたもので、焼きそばに振りかけて食べると尚、美味しく食べることができた。半分に折った割り箸でたべる小さなビニルに入った焼きそばは、いつもあっという間に食べ終えた。
そんなことをしていると、いつも日が暮れだして家路へと急いで帰って行った。
家の裏側の路地からは、台所の明りと、母が夕餉を用意する音が聞こえてきた。裏の木戸から庭に入り、玄関を開けて入ると何故か?これまで包丁を使っていた母が、すでに玄関口に立っていつも迎えてくれていた。
いつだったか?このことが不思議で母に質問したことがある……「どうして帰ってくるのがわかるの?」
すると母は笑いながら「母さんのテレパシーよ」と言った。
いつまでも謎だったが、ある日その謎が解けた……私がいつも決まって、裏木戸の階段を小走りにあがり、戸を「ぴしゃーん」と音高らかに閉めるので、その音で母は私の帰宅を察知していたのだと。
「母さん、わかったよ……木戸を閉める音で帰ってきたことに気づくんだね」と私が言うと母は「どうかしらね?」と笑いながら返事をぼやかした。
少しだけ大きくなってからは、アパート公園は卒業し、友達数人と猿江町へ進出するようになった。
ここには二大駄菓子屋があった――もんじゃ焼きの「斉藤」と駄菓子の「たやま」だ。
まずは、家からは少し手前側にあった「たやま」デビューをした。
ここは、子供にとっても優しく常に笑顔の細身で小柄なお婆ちゃんの店だ。間口一間半くらいの小さな店で、その分、品数も少なめだったが、私は子供ながらにもこのお婆ちゃんの接客態度に痛く感銘を受けていて、進んで利用した。
「おばちゃん、たこ煎餅ちょうだい」「はいよー、オマケに梅ジャムつけてあげようか?」
端っこに少し塗ってくれた。
「斉藤」はここよりも大きな店で、店外には10円ゲームやガチャガチャの機械が数台並ぶ。10円硬貨を入れて左右の金具を昔のパチンコのように弾いてコインを一番下まで進めることが出来ると景品が出てくる仕組みだ。引き戸を開けて入ると左側に大きなアイスクリームショーケースがあり、その先に駄菓子の木製ケースが並ぶ。天井からは様々なおもちゃ等がぶらさがっている。
わたしはその頃、コリスガムのくじを良くひいた――子供の頃からくじ運が強く、ひく度に一等や二等を当てて、大きなガムのセットを度々持って帰ったものだ。
店内の右側には、お好み焼きの鉄板が一台とそのまわりを取り囲むように木製のベンチが置かれている。
「斉藤」のメインは「もんじゃ焼き」だ。
ここには暗黙のルールがあった。
上級生は壁奥側の椅子席で、手前側は下級生席と決まっていた。
まだ、小学校中学年だった私たちは手前側の席でもんじゃを焼いた。
大抵は50円のキャベツだけが入った素もんじゃに一袋5円のベビーラメッツ(ラーメン)を入れた。それに「ちびっこコーヒー」で100円でお釣りがきた。
リッチな時は、それに別途「玉子」を貰って鉄板の上で焼いてソースをつけて食べた。シンプルだが、これがしみじみ美味しい……潰して焼いた黄身の部分を良く焼きすると尚更美味しい。
たまに、これらのルールがわからない子が、奥側の席に座って食べようものなら、上級生の手厳しい指導が入った――「お前、一度外に出ろ」
主を失ったもんじゃ焼きは焦げる一方である。しまいには、斉藤のいつも眉間に皺を寄せた、いかついお婆ちゃんが「いい加減にしなよ!!」と奥から怒鳴った。
上級生と焼台を囲むときには、鉄板上のスペースにも細心の注意を図って食べたものだ。自分の手前側の極力小スペースで焼いて食べるように気配りをした。
もんじゃ斉藤は、この頃の子供の社交場であり、上下関係の礼儀などの最強の勉強の場だった。
やがて大人になった私たちは、社会の大海にでて、人間関係の複雑さに翻弄される訳だが、子供の頃に培った上下関係への礼儀作法やルールは、決してマイナスではなかった……
今思えば、もんじゃ斉藤ではとても実りのある空間・時間をいつの間にか過ごし、大切な社会性が身に付いていたのだ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?