見出し画像

【母に宛てた最期の手紙】

僕も白髪が気になる歳になりました

母さん、あれから随分と月日が経ちました

いつまで経っても朝帰りの僕に
いつしか愛想を尽かして
出て行った妻と娘たち

随分と広く感じるようになった部屋に
残されていた赤いマグカップ
シンデレラのポスター
小さくなった数本の鉛筆

テーブルの上にあった置き手紙は
とてもあっさりとした
さよならの文面
休まずに向かった職場での一日は
笑うことの出来ない長い一日でした

家に帰って
部屋が四つもあったことに戸惑い
一部屋、一部屋巡っては
ため息をついて
そしていつしか
ひと部屋しか使わなくなりました

やがて言葉を交わさない
静かな生活が普通になり
レトルトのカレーにも慣れた頃
兄からの留守電で
知りました

母さんは旅立って行きました
ひとり遠くに旅立ちました
いつも何事にも真剣で
真面目な母でしたので
閻魔様の評価もそうは悪くは
なかったことでしょう

母さん、あれは虫の知らせかと
思います
母さんが亡くなる前の日のことです

僕は母さんの具合が悪くなっても
病院へ行きませんでしたね
いいえ、病院どころか
父のところへも、兄のところへも
行きませんでした
行けませんでした

家族が出て行ってから
みんなに合わす顔が無く
随分と経っていましたね

それなのにあの日は
仕事を終えて
遅くなっていたのに何故か
足が病院のある駅に
向かっていました

入院病棟の部屋を覗くと
兄が母の傍らで
うつらうつらしていました

僕は兄に合わす顔も無く
そのまま病院を出ました
母の顔をろくに見ることもなく……

近くの喫茶店に入り
いつしか時間が経っていました
内ポケットに入れた手紙を開いて
読み返しました

母さん
母さんがパート先で貰ってくるお弁当が楽しみだったこと
母さんが作ってくれた肉じゃがが、いつも少ししょっぱかったこと
母さんが入院して、とても寂しかったこと
よく二階の部屋で一緒にレコードを聴いたこと、そして口ずさんだこと
僕のバンド演奏を聴きにきてくれたこと
そして応援してくれたこと
ホテルマンになった僕を誇りに思ってくれたこと
そして僕の勤めるホテルを気に入ってくれていたこと
たくさんありがとう
書いていて涙が溢れてきて
途中で書けなくなりました
僕は何度ありがとうと言っても
言い足りません

面会時間の終わり間際にもう一度、入院病棟に行きました
もう兄は帰ったあとでいませんでした
僕がベッドの傍らに行くと
母はハッと気がつき
僕の名を呼び
痩せ細った身体を起こして
手を握りました
僕はその手の細さに、冷たさに
涙が溢れて
その涙をこぼさないように
必死で微笑みました
瞳がゆらゆら揺れて
母が霞む中
手紙をポケットから出して手渡すと
母は「もう目が良く見えなくて」と言い
持つ手が震えていました
僕は「父さんが来たら読んで貰って」
と言いました
母は何度も頷いていました
既に面会時間はとうに過ぎていました
「じゃあ、また来るね」と
涙を呑み込んで言いました
すると母が
「あんたは優しい子だから……」
と言い、もう一度手を握りしめて
微笑みました

それが最期でした

あれは虫の知らせでした
その翌日に容体が急変して
母は旅立ちました
僕は旅立つ母を見送ることが出来ず
兄からの留守番電話で知りました

それから僕は安らかに眠る母の傍らで
思っていました

母さんは僕が来るのを待っていて
くれたんだね
いつまで経っても会いに来ない馬鹿息子を
痺れをきらしながら
そして
やっと会いに来た翌日に
少し安心して旅立って行ったのだと

母は煙になり空に昇っていきました

あの後、父の声で聞いた
あの手紙も
母と一緒に
空に昇って行きました
大好きだった沈丁花の香りと共に

母さん
僕はあの手紙の返事を
今でも母さんに
聞いてみたいんだ

お婆さんになる前に亡くなってしまった
母さんの歳に僕も近くなりました

僕も白髪が気になる歳になりました


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?