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【エッセイ集】⑧ハミングバードのアコースティック

 私とギターとの出会いは小学校に入って間もなくの頃まで遡る。正確には生家には父のクラシックギターがかつてよりあったが、それは壁に掛かって「ほこり」をまとっており、まだ小さかった私には「それはいつもそこにある単なる静物」としか認識していなかった。

私はその頃、八歳になっていた――ある日、祖父が大きなギターケースを抱えて帰ってきた。私の生家は父方の祖父母と長男である父、私の母、兄と出戻りの父の妹とその娘姉妹の九人家族の大所帯であり、更に週末ともなるとその「本家」に父の妹弟たち六人がその子供達――つまり私のいとこ達を引き連れて集まってくるので祖母や母はその食事の準備に毎回追われた。話がそれた……そのギターは、祖父の趣味の「ヘラブナ釣り」で優勝した副賞で貰ってきたもので「ハミングバードのフォークギター」だった。茶色の鼈甲を模したようなピックガードの絵模様には「蜜鳥」が羽ばたいており「ハミングバード」のネーミング由来となっている。ボディーはナチュラルで木目の美しさが生かされている。まだ身体の小さかった私にはとても大きく、抱えて弾くのが困難な代物だったが、兄と一緒になんとなくコードストロークを弾くうちに当時の流行歌やフォークソングなどの簡単なものを弾いて歌うことができるようになっていった。このギターは「Pearl」から発売されたものでグローバーのペグが付いているなかなか良いスペックのギターで弾きやすく、品質もよく五十年の歳月を経て今でも現役である。よく使うフレット付近のローズ指板は擦れて、所々が白っぽくなってしまっている。子供の手には太くて握りきれなかったネックもいつしかしっかりと握れるようになっていたものだ。中学になると兄が買ったストラトキャスターを拝借して弾くようになったが、その間もいつもこのフォークギターが傍らにあった。
中学二年の時に、イエペスのギターで有名な「禁じられた遊び」が音楽の授業であり、クラス生徒の前でこのギターで演奏をした。かつてない緊張感の中で、普段のように指が動かなかったのを今も覚えている。この年には相棒のクラスメイト「定雄」と、同じ学級の女性の脇さんとの三人、地元の公会堂で行われた「区内中学・英語スピーチコンクール大会」の中間余興で「カントリーロード」を演奏した。この時は定雄がギター、私はベース、脇さんはピアノの編成だったが、ベースは兄から借りた「プレジジョン・ベース」で今から思えば、あの大きな会館で、持参したベースアンプのみでどのくらい会場に響きわたったのかは今では知る由もない。私たちの演奏で会場の人達も一緒に歌ったものだから尚更だ。中学の卒業式では定雄と当時の人気ドラマ金八先生の主題歌「人として」を定雄がストローク、私が愛用のギターでアルペジオ演奏し卒業生たちで歌った。私の担任だった女性の「矢野先生」が歌いながらも大声で泣いていた情景が今もよみがえる。

お年玉を貯めて初めて買ったエレキギターは錦糸町北口にあった「質屋」の流れ品で、店舗入口にあるショーケースの中に飾られていたものだ。何度も何度も見に行った――売れてはしまわないか?ドキドキしながら何度も何度も訪問した――中学二年の頃だ。購入して自分の部屋に置いた時のときめきは今も忘れない。重厚な四角型の黒色のハードケースには「フェンダー」の文字……テレキャスターはシンラインモデルのノーブランド物ではあったが少し茶色がかったナチュラルな木目が美しい一品だった。このギターで中学三年の時にはバンド活動をしてステージに何度か立ったのだが、高校の軽音時代に同じバンドのメンバーに貸して、今もそのままだ。

五十年分の傷があちらこちらについている。ライブ会場で倒したときについたヘッドの傷は、素材本来の木目の色を教えてくれた。ボディー横の傷はもうすでにいつ付いたものかも忘れてしまっている。今では多数あるギター――だが長年愛用してきたハミングバードは私にとって今も特別な存在であり、亡き祖父が与えてくれた私の豊かな人生への贈り物である。

 

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