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【えい太郎!旧中山道をゆく!!】その①日本橋からスタート~本郷…巣鴨…板橋宿

 さあ、長年の夢だった「中山道」を歩く旅をはじめる。
この旅行記は今になり、わたしが実際に歩いた45歳の頃を思い出しながら書いた手記である。

さて出発点の日本橋に降り立った。
五街道(中山道・東海道・甲州道中・日光道中・奥州道中)の基点となる「日本国道路元標」が橋のたもとにある。
日本橋は慶長8年に徳川家康が江戸の町割りをおこなった際に架けた橋だ。近くにあった河岸からは全国から船で運ばれた物資や魚が陸揚げされ、周辺には伊勢や近江、京都に本店を置く江戸店(えどだな)が立ち並んでいたとある。
橋の欄干には見上げるほど大きな青銅製の彫刻をほどこした柱があり、その脇には「羽根のある麒麟像」の彫刻がある。橋の両端には獅子像もみえる。さらに明治期を彷彿させる「ガス灯」を模したような電灯もある。
「にほんばし」の橋書きは、なんと江戸幕府最後の将軍「徳川慶喜の筆書き」だ――驚きと発見である。
「魚河岸発祥の地」碑も発見――賑わう江戸の河岸をイメージして目をつぶってみた……大八車が忙しく行き交い、担ぎ箱をもった駆け足の男衆姿が浮かんだ――活気ある江戸の風景を脳裏に再現してみる。目をあけると、そこには橋上にかかった高速道路……夢は一気にさめてしまったが、この風景も2040年には地下ルートとなり、晴れて「日本橋川」はまた日の目をみることができるのだ。
日本橋1丁目1―1は1階が洋食レストランのビルになっている。
祭りが近いのか?周辺では提灯などの準備をはじめていた。

さて、日本橋三越本店の前を通り過ぎ、JR神田駅のガードをくぐり抜けると、まもなく「湯島聖堂」のところに出た。神田界隈の喧噪が嘘のように静けさが広がり、木立を抜ける風が爽やかだ。参道からは「神田明神の神門」がみえる。

『神田明神』
神門 夜のライトアップ

本郷方面へと歩をすすめる――東京大学の赤門を通り過ぎ、さらに歩をすすめると「巣鴨地蔵通り商店街」にでた。「とげぬき地蔵」で有名な賑やかなこの通りが「旧中山道」である――八ツ目鰻の暖簾がみえる――巣鴨庚申塚まで780mほどの道のりで、この都電駅にはなんとホームに「甘味処」がある。
ここからは45分ほどで板橋へと到着する――中山道最初の宿場町だ。
天保14年(1843)には旅籠54軒を数えたとある――平尾宿・仲宿・上宿の3地区からなっていた。追分となる道の、右手の細い商店街が板橋宿だ。今やその面影はなく、商店などが軒を連ねている。そのはずれには「縁切り榎」、さらにすすむとその先には「板橋」の名の由来ともなった橋があるが、現在はコンクリート製の平橋となっている――当時は板で出来た「タイコ橋」だったという――今は赤い欄干だけが当時を忍ばせる。
JR板橋駅東口の前には、新選組隊士供養塔が立ち、その正面に「近藤勇宣昌・土方歳三義豊之墓」と彫られている。この供養塔は新選組の生き証人となった永倉新八が奔走し、明治9年(1876)に建立した。傍らに新八自身の墓もある。

ここまでの道のり11km、約3時間だが、当時の人々は1日の歩き慣しをしてこの板橋宿で休みながら体調を整え、この先の長旅に備えたのだろうと想像したのだが、それはどうやら間違えらしい。当時の人々はわざわざ日本橋まではいかずに、板橋から出発し、見送る人も出迎える人もここまでが一般的だったという。そのため酒楼や茶屋もあり中山道一賑わっていたという。
初日の11km!!すでに現代人にはかなりきつい距離であり、スニーカーを履いた足が痛む、ふくらはぎがだるい……わら草履で歩いた当時の人々の嘲笑が目に浮かんでは消えていった。
【参考文献】中山道を歩く旅 山と渓谷社
2008年

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