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【エッセイ集】⑪鬼怒川のおばあさん〜蛇いちごの畦道


 幼少の頃、鬼怒川にあった「おばあさん」の家に遊びに行くのがとても楽しみだった。
「おばあさん」といっても、わたしのおばあさんではない。正式にはわたしのおばあさんの姉にあたる人であり、わたしのおばあさん――つまりわたしの母の母上は、宇都宮に住んでいた。

鬼怒川のおばあさんは四人兄弟の長女で、巨漢でありアメリカ映画に出てくる「ビッグ・ファット・ママ」のような貫禄をそなえていた。宇都宮のおばあさんは次女であり、若かりし頃は「原節子」似と言われてかなりモテモテだったらしい。三女が横浜のおばさんと呼んでいた人で、話すことにユーモアがあり小柄で細身――大学教授で植物学の権威だった旦那さんを早くに亡くした後家さんだった。さらにその下に一人、長男の清三おじさんという人が宇都宮に住んでいた――自衛消防団員であり、よくその制服姿のまま現れた。
 
鬼怒川の家は典型的な日本の農家家屋であり、道路からは緩やかな坂をのぼった上にあった。家の正面には小さな「お社」があり、まだ幼少だったわたしは庭に「神様」が祀られているのが不思議でならなかった。その前に吊された子供の手には太すぎる「藁あみの手綱」の上部にはくすんだ銅金色をした大きな鈴がくくりつけられていたが、まだ非力だったわたしの手では、どうやってもかすかにしか鳴ってはくれなかった。
大きな玄関の横には、庭に面した長い縁側があった。広い座敷の上には「ハエ取り紙」が何本か吊されていて「蝉やバッタ」までもがその餌食になっている。
夏でも冷たい井戸水は手動ポンプ式で、水が出てくる蛇口には「手拭い」がくくりつけられている――今でいう「フィルター」の役割をしていた。わたしはそれを動かすのが気にいっていて、無駄に水を流してよく叱られた。
家の裏側には畑が広がっており、自分の家で食べる分の野菜はここで栽培している。
 
おばあさんには子供が二人いた。女一人と男一人――わたしからは親戚の「おばさん」と「おじさん」だがその頃のわたしには、その複雑な関係性など知る由もなかった。
 
おばあさんには子供ができなかったという。わたしが大人になってから、母から晩年に聞かされた話しだ。二人の子供――長女である「久子おばさん」の生みの親は、わたしのおばあさんでもある「宇都宮のおばあさん」であり、実はわたしの母の姉にあたるという。とっても陽気なキャラクターであり、いると何倍も賑やかになる人で、もの静かなわたしの母とは正反対である。
もう一人の長男「好夫おじさん」の生みの親は、三姉妹の末っ子の「横浜のおばさん」と呼んでいた「クニおばさん」だ――このおじさんは苦労人で、タクシーの運転手からはじめて、鬼怒川のあるホテル旅館の支配人を経て、自分で小さなゴルフ場や観光業を経営するまでに至ったのだ。川治で「水陸両用車の運行」をしたりと抜群のバイタリティーを発揮した――わたしの憧れのおじさんでもあった。よくテレビにも出演して地元では有名人となっていた。
鬼怒川のおばあさんは、その二人の育ての親だったという。
まだ若かった妹たち二人の赤ん坊をひきとって育ててきたのだ。
 
三姉妹とその子供の関係が複雑に絡み合っていたことを知るきっかけは「宇都宮のおばあさん」が亡くなった時に遡る。大好きだったおばあさんの通夜は泣き通していたのであまり細かなことは記憶に残っていないが、参列の際に母が久子おばさんに「長女なのだから」と座る場所や線香の順番を気にしていたことを憶えている。
わたしは心の中で「おかしいな?母が長女のはずだけど」と呟いていたが、後に母からの話でそのことが腑に落ちた。
 
わたしはそれぞれ二人の子供たちとは「いとこ同士」のように遊びながら育ったが、正式には「親戚」のくくりになるのかもしれない。
「好夫おじさん」も同じく鬼怒川に住んでいた。二人の娘と、遅くにできた幼い長男が生まれてまもない頃だ。
二人の娘は「恵美ちゃん」と「真美ちゃん」といい、わたしよりも年長で幼いわたしをかわいがってくれた。
「えいくんに『ねんど』をとってこようよ」と真美ちゃんが姉にいっているのが聞こえた。
「ねんど?」わたしは工作で使う「ねんど」を頭の中で想像した。
そんなものが、この周辺にはあるのか?
山が近いから採れるのかも?などと思っていた。
しばらくすると姉妹がとっても綺麗な紫色の可憐な花をつけた数本を手に戻ってきた。
「はい、えいくん」
手渡されたものを見て、わたしは目を丸くした……ねんどは、なぜか花束へと変わっていたのだ。
花の名前は「りんどう」だった。
わたしが「りんどう」を「ねんどう――ねんど」と栃木弁も相まってどうやら聞き間違えていたらしい。
 裏の畑へは、おばあさん達と一緒によく収穫の手伝いにいった。
畑へ向かう畦道の両脇には、タンポポや小さな青い花、赤い花が咲き乱れていた。
そんな中に「ポチッ、ポチッ」と赤いものが見えた――「あの赤いのはなに?」
「あれは蛇苺だよ」とおばあさんが言った。
「食べられるの?」って言うわたしに、
「食べてみな」って言って笑ってる。
わたしは、恐る恐る手をのばした……どうして臆病な手になってしまったのかは、その草むらから何か出てはこないか、気にしながらのことだったからだ。蛇苺という名もそのことを後押ししていたのかもしれない。
その赤は、普段にみる苺のそれとは違って、人の血のごとく色付いた濃い赤をしていて、差し出す手を躊躇させるには充分だった。それでも、一つもぎ取るとそれは、赤い果汁が手に滲み出し、まさに血の滴のように指先を染めた。
それを見つめるわたしに「捨てちゃいな」と笑いながら、おばあさんは言った。
畦道一面に実る蛇苺の濃赤色の景色は、それからも当分の間、わたしの脳裏に焼き付いて離れなかった。

夏には「とうもろこし」がその髭をたわわに茂らせ、わたしの背丈をゆうに超えていた。
その実の元からもぎり取ると、髭の隙間から「テントウ虫」が慌てて飛び出してきた。
わたしは途中から「とうもろこし」はそっちのけで、虫探しにいつしか夢中となっており、そんなわたしをおばあさんは優しく見守ってくれていた。
鬼怒川周辺は昆虫の宝庫だった。
日が暮れると好夫おじさんが「スバル360」でカブト虫やクワガタ虫のいそうな山の周辺につれていってくれた。
ライトに照らされたトンネルの周辺には虫が飛び回っている。
勢い余って道路に落下した虫を捕まえる――大きなミヤマクワガタだった――わたしの昆虫好きはこの頃に培われたのかもしれない。
夜になると近くの好夫おじさんの家に泊まった。
リビングの大きなガラス窓には灯りに集まって色んな虫たちが飛んでくる――それを観察するのも楽しみのひとつだった。
「あの大きく綺麗なブルーの羽を広げたのは蝶?」
「あれはオオミズアオといって蛾の一種だね」さすがにおじさんは詳しい。
蛾とは思えない美しさにわたしは目をみはった。
薄い水色のドレス生地をまとったようなしなやかさ――羽の上部にある赤のライン――蛾にしておくのが勿体ない美しさである。
こんどは茶色で少し地味だが、羽根に「キョロリ」とした目のようなマークのついた蝶が飛んできた。あとで図鑑をみると「ジャノメチョウ」といって、これは蝶で正解だった。
不思議な「ピンク色」をしたロケット型のような蛾も飛んできた。これは「ベニスズメ」というスズメ科の蛾だった。
縁側の椅子に座ってガラス窓をいつまでも見ていたかったが……
「そろそろ寝ましょう」と叔母の声にしぶしぶパジャマに着替えたものだ。
外はまさに満天の星空だった。天の川が綺麗に見えていた。
 
朝の散歩の途中では蛇に出くわした。わたしはこの時が野生の蛇をみた最初だと思う。30cm程度の薄茶色の蛇だ――細かなウロコが鈍く光り輝き、ヌラヌラと濡れているようで薄気味悪い――ニョロニョロとその体躯をくねらせて草むらのあたりをすすんでいる。怖いのと同時に、男として一緒にいた姉妹を守らなければいけないという気持ちもあって、とっさにそのへんにころがっていた石ころをつかんで蛇めがけて投げつけた。蛇には当たらず、微動だにしない。蛇はまたニョロニョロと草むらの中へ消えていった。
「えいくん、怖いからもうやめて」と姉妹に手をひかれて家に戻った。
 
度々訪れた鬼怒川は、いつも親戚達が集合していてとても賑やかだった。
今思えば、そんな入り組んだ関係もあって、みなで集まることで絆を築いていたのかもしれない。
 
そんな鬼怒川のおばあさんは早くに亡くなった。
まだ、わたしが小学生の頃だった。
それを追うように、小柄のご主人もすぐにいってしまった。
懐かしい家がその後どうなったのかは、まだ小学生だったわたしには知る由もなかった。
随分と時がたってから、廃屋となったことを知った。
 
このところ、あの「お社」がどうなったのか?気になってしかたがない……今更に、あの地を訪れてみたくなって、これを書き始めた今日この頃である。

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