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【エッセイ集】⑩レストラン*ミクニ

 大人になってからの誕生日は普遍的で、あまり記憶の奥に折りたたまれるものは少ない。今から思えばすばらしく華やかで豪華なものではなかったのかもしれないが、幼少の頃の誕生日の記憶はセピア色の思い出の中で、脳裏に焼き付いている。

我が家では兄弟二人の誕生日とクリスマスには決まって食事に出かけたレストランがあった。自宅から子供の足で歩いて二十分近くもかかった――まだ小さかった私にはとてつもなく遠い場所にあるレストランだったはずだが、なぜか、ここへいく時の心の高揚や父母と手をつないで歩く楽しさや安心感から、ちっとも苦にならなかった。
レストランのあった森下界隈は当時、下町深川では少しは賑やかな場所だったと記憶する。

表通りに面した商店街には花屋や和菓子店、玩具屋などが軒を連ね、私を目移りさせるには十分だった。こと、玩具屋は素通りなど出来るはずもなく、入口付近にぶらさがった「ウルトラセブンの写真くじ」や「仮面ライダーカード」などなど、なにかひとつくらいは買ってもらえる絶好のチャンスだった。その玩具屋はかつて、祖母に手をひかれて森下商店街へいった際に「ウルトラセブンの写真くじ」を綴りごと1冊買ってもらった実績のある店だ。写真くじとは、紙の封筒に入った中身の分からない写真を1枚10円でひくもので、時には同じ写真が出てしまうこともあった――そんな時は、父の働く自宅隣にあった鉄工所へズカズカと入っていき、優しめの工夫のおじさんをつかまえて、10円で買い取ってもらうという姑息なことをしていた。この店の前を通る時は父母もある程度は覚悟して訪れていたのかも知れない。わがままで甘えん坊の典型的次男の私を、兄までもが優しい目で見てくれていたように思う。なにかしらの収穫を手にレストランへと向かうのが常だった。

レストランは通りに面してその向かい側に建っていた。二階建ての小さなビルだったように記憶する。一階の入口ドアの横には、横長のサンプルケースが鎮座しており、鉄板に乗ったハンバーグやステーキ、オムライスやカレーライスなど当時は銀座などのデパートに行かなければ見ることができない魅力の洋食料理が並んでいた。そのレストランは洋食ミクニといった。店内に入ると窓側に二人席がいくつかと、中側に四人席が数席あったと思う。テーブルには、いつもきれいな赤のチェック柄のクロスがかかっている。私たち家族を迎えたウエイトレスの女性は、笑顔で且つ素早く、私の分だけ子供用の足の長い椅子に取り替え四人席へ案内した。食べるメニューは行く前からいつも決まっていた。コンソメスープと海老グラタンである。今でこそ家庭内の日常メニューだが、当時はそれこそ「洋食専門レストラン」や「デパートの大食堂」などに行かないと食べられない代物だったし、とてつもない晴れの日のご馳走だった。グラタンの焼き上がるまでに飲む、コンソメスープの味は今でも忘れられない。何が入っているのかは説明がつかないが、家庭では出せない気取った洋風の味だった――そしてトパーズ色に輝いていた――最後の一滴までスプーンですくった。待ちに待ったグラタンはテーブルに並んでもすぐには食べられない灼熱の料理であり、フォークでマカロニを刺すたびに息を吹きかけ冷ます。何度も繰り返す頃に、やっとホワイトソースも美味しく食べられる頃合いとなっていった。

帰り道の途中にある菊川町のカスタードで頼んであったバースデーケーキを受け取り、家に帰ってからローソクをたててケーキをいただく。父はこの頃には飲んだ酒で少し赤ら顔になり、ごきげんに自慢のライカでシャッターを何枚もきった。

父も母も亡くなってからもう随分と月日が過ぎたが、父の撮った写真の中で家族が微笑む。テーブルの真ん中にはイチゴの乗った丸いバースデーケーキとまだ若かった頃の母の笑顔――フラッシュにまぶしそうな目の兄、私はと言えば、大好きだった青いラインの入ったカーディガンを誕生日の晴れ着に着て、うれしくてたまらない口元からは、それはみごとな「みそっ歯」がのぞいていた。

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