日本の子どもの自己肯定感は低くない

 と思います。という話。
 別に抑圧もされていない。無論特別な状況を除いて。
 子どもはレジリエンスの化け物です。無論特別な場合を除いて。

 ある程度の障害物は成長するために教材です。それは学習であっても、決まりであっても、先生であっても、親であっても、友達であっても、先輩後輩であっても、時間であっても、テレビゲームのボスでも、書籍であってもとにかくなんでもいい。
 つまづきは立ち上がるための第1歩です。昔登校拒否(不登校の昔の言い方です)の学習会で不登校をつまづきという言葉を使って表現した講師に失礼だとつっかかっている親を見たことがあります。今なら言えます。それってあなたの・・・

 それた。躓かないようにするのではなく、立ち上がれるようにする。支援であっても援助であっても指導であっても強制であっても伴走であってもとにかくなんでも良いから立ち上がらせるのが教師の仕事だからです。

 そういう仕事に従事しているととてもじゃないが、日本の子どもが自己肯定感が低いとは思えないわけです。肌感覚として。

 セルフエスティームが心理学の分野で日本に紹介された時点で、自己肯定感は高い方が良く、低い方が悪いという妙なイメージが放り込まれていました。いくつかの外国文献にはそんなことは書かれていない。
 元々は自己評価のあり方に関する主観であり(諸説あり)、他者性は含まれないはずでした。当時から私は性格や文化、政治情勢、情報の度合いなどが影響する極めて定量的測定の困難な代物だと直感していましたし・・・。
 これを使って他人や国、県などの所属団体を平均値で比較する発想がどうにもよくわかりません。高い低いの代物ではないと思う理由です。

 そもそも日本で自己肯定感が流行した時間経過の中で、解釈が他の概念を組み込んだり、他の概念と区別されたりして自己肯定感の意味が元々のセルフエスティームの意味から離れ始めてしまったのは間違いのない事実です。
 テクスト論から自由な解釈は当たり前だみたいな文化が文系研究者の中にはいまだにあって呆れます。おそらく日本の大学が諸外国の大学に諸外国の作ったランキング(日本も自前のランキングを作れば良いと思うのですが、無理なくらい大学を取り巻く権力が日本国内では強いのでしょう。日大の例を見るまでもなく)で勝てないのは、半分以上文系のせいだと思います。文学部唯野教授ではないですがテキトーなんですよね。もちろん優秀な方は優秀ですが差が激しい。BFやFラン出身者がロンダリングしてるなんて珍しくもありません。特に心理学系・教育学や情報教育は狙い目です。

 それた。自己肯定感に固定的な定義はもはやないに等しい。よってうまい具合にこの言葉を使った自己啓発商売を商う人も多数いるようです。
 諦めた人たちは自己有用感や自己効力感とかを使い始めました。他にも自尊感情、プライド、全能感、自惚れ、自己愛、自意識など明確には区別しにくい言葉で溢れています。
 諸々いりまじっているが、どうやら自分が自分であって、存在してもいいみたいなニュアンスでアンケート集計されていることだけは確かなようです。
 
 それが外国と比べて著しく低い。問題だ。高めよう。心ある人は高めようと言わずどうにかしようとなりますが・・・。

 そもそも低いのか?外国が高すぎるんじゃね?
 というか日本人は文化的に元来控えめなので、質問者に会わない質問紙調査であっても俺すげーみたいなことを書くことを控える人の方が多いです。外国人にみたいに人前で大っぴらに横柄な態度をとること自体稀です。最近バカみたいな人が日本にも増えてきましたが。それでもその数字はいくらか控えめにでも補正すべき点があると思います。やりすぎると捏造になりますが・・・。
 しかしその補正点は日本の美徳です。しかも質問相手が目上の人の場合顕著に出ます。そして日本の質問紙調査は外国のドライさに比べてなんかウエッティなんですよね。粘着的感じです。上から目線だし。そしてなぜか日本人は答える方もすごく真面目に答えます。日本の美徳です。(2回目)アンケートの一意見が本物の政策に反映されると思い込んでいるんですよね。集計する仕事をした経験から言えばそんなに真面目に答えても万分の一の数字にしか過ぎないんだよ。もっと気楽に答えてね。なんならP値の関係で省かれてしまうからさ。というのが本音です。

 データ駆動型という発想や行政を数字で動かすことは、ある程度理解できますし、必要だと思います。しかし成田悠輔さんもいうようにデータは細分化すればするほど断定的にものが言いづらくなる側面があります。今だに時代錯誤も甚だしい平均値を絶対視するデータの使い方をする人間もいます。
 これからのデータ駆動社会は少なくとも前提として平均点より上だからよかったねみたいな発想を平場の学校教員以上の人がしないようにする必要があるでしょう。

 そういった意味では自己肯定感というのは、政策提言に活かせるほどのデータにはなりにくく優先順位も低いのではないか?そしていうほど低くないから今でもきちんと教育が成り立っているのではないか?低い人もいるけど平均的に数値を出すことには意味がないのではないか?ということです。

 ただ個別の子どもを主観的に相対的に見るときの一つの目安としてはありだと思いますし、その評価は必ずその子どもとの接点を作るときのポイントや取り組みのアイデアとして有効であると思います。高いから良い子、低いから悪い子という粗末な使い方さえしなければ・・・ということです。

要は使い方次第。他人の都合に惑わされない自分の思考が大事です。

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