閑話休題 教師が話さない授業 研究授業って

今日は多分愚痴しかない閑話休題です。
ロジカルに語る気がしない。

 教師が話さない授業をしなくてはいけなくなった。
 面倒だ。
 どうしてこれが良い授業みたいになるのだろう。
 どこの誰がその「良い」を撒き散らしているのだろう。犯人はググれば出てくるけど・・・
 転勤したての学校でこれがやりたいと言われるのは別にいいのだが、それってみんなが問題意識として抱えているものなのだろうか?

 「良い」を見る角度には様々あると思う。
 苫野一徳さんの「どのような教育がよい教育か」はその問題に真摯に取り組んだおそらく唯一の書籍ではないかと思う。しかし結果は・・・うーんうまくいかないんでしょうなぁ。哲学的な課題解決のめざし方では結局哲学が抱える沼にハマっちゃうよねを絵に描いたような結論に至っていると読みました。
 おそらく教職員にも、保護者にも、子どもにも、研究者にも、教育行政担当者にも・・・誰に対しての答えにも、そしておそらくヒントにすらなっていない。読み物としては面白いけど。彼はそれに気づいたら風越学園から撤退したのではなかろうか?さほど現場はアポリアを抱えているのですよ。と思ったら最近学習指導要領について対談してた。哲学よりさらに実生活に役立たないものにすり寄るなんてよっぽどいやな「ゲンジツ」に接したものと拝察します。お可哀想に。

 哲学は問いとしては優秀ですが、、、
 いろんな授業や書籍で問いを立て散らかしてから、それで子どもの学びや姿勢・主体性に変容が見られたとか教職員が変わったとかありますが、それは大変卑怯な話です。
 当たり前のことを当たり前に言っているだけだからです。
 今までとは変わったことをして、変わった反応しなかったらそっちのほうがおかしいでしょ。
 しかも中学生、高校生が教えない授業でそうふるまえるのはそれまでの小学校や家庭の積み重ねをただ無駄に消費しているだけで創造的な取り組みはどこにもないんじゃない?

 なぜそれが「良い」教育なのかがよくわからない。
 東浩紀さんが改善の善にこだわって訂正を推した理由があまり活かされていない。


 良い授業というものを考えたとき
 ふと研究授業とは教師と子どもを使った見本市のようなもんだなぁと思えてきた。
 普段の授業と違うエッセンスを加えて自分はこんな教員ですよ。うちのクラスはこんな子どもたちですよ。という自己紹介をする。もっと言えば自己開示。
 それに良いも悪いもないだろ。なんとか現場における次の回転力に繋げていきたいよね。晒し者になってもいいから。
となるとコンセプトしては
誰がやっても一緒でしょという安心感をふりまく
研究としての意図がダダ漏れになっている授業 授業として成立していないくても良いからさ とにかくこういう研究しましょという青臭いパッション。
授業者の矜持がダダ漏れになっている授業 せっかく見せるんだから俺のこだわりを邪魔するなよとクギを刺しておきます。どの子もおいていきませんよたとえ授業が成立しなくても。でもニコちゃんマークを書くような授業はしないよレベル下げてできたことにするのはまやかし。
見たこともない味付けが加えられている授業
行き先が未定な授業 たまのオープンエンドは授業者のウデの見せ所。
指導案の書式が斬新な授業 あの定型文はダメでしょ。
つまりツッコミどころ満載な授業

 さて研究授業とは何か?みたいな話になっちゃったけど
 表題に戻れば
 別にしゃべってもいいじゃん。
 というか教員なんて話芸でしょ。
 ベタが一番。テンションをコントロールして惹きつける。
 一体的な空気を生み出す。自由な雰囲気の中で安心感を醸成する。
 教員なら誰でもやっていることです。

 最後にもう一度。えらそぶっている教員が特別な取り組みができるのはそれまでの子育てや教育があってこそです。
 附属学校、私学が特別なことをやれているのも同様です。その取り組みを主導した教員の功績ではない。何をどう勘違いしたら顔を晒してえらそうにできるのか神経がわかりません。特に校長で教育が変わることなど1ミリもない。本を書いているやつなども同罪。
 ホントに現場の「ゲンジツ」にとって害悪でしかないんだよなぁ。いっぺんゲンジツ叩きつけられたらどうですか?

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