不平等な評価方法の想定

 ディープエコロジストによる仮想評価法という評価方法があるらしい。極端な話、人間の命も昆虫の命も等価で考えるようなエコロジストが環境維持にお金を払うとしたらいくら払うかを調査することで環境の価値を算定する方法らしい。
 いやいやその結果世界の環境保護自体に何百兆の価値があると言われても、その評価方法には無茶しか感じないなぁ。
 経済効果の話にしたって阪神の優勝やオリンピック、万博の開催に何百億の経済効果と言われても同様です。
 しかもこれらに算定方法にはチェックが入れられることもなく、結果の金額だけがエビデンスとして使用されるということが実際に起こっています。これはシンギュラリティの2045年についても同じことが言えるでしょう。

 もちろん政策決定には迅速な決定も必要であるし、それなりの根拠らしきものが見えるところに優先的に財源が投入されることも必要になるということもわかります。

 しかしいまだに日本は走り出したら止まれない式の、そして止めてしまったら官僚が責任を問われかねないという感覚でマスコミ以上のチェック機能が働かないシステムを採用したまま走り続けているんだなぁという感覚です。

 あれほどの議論を巻き起こした東京オリンピックにしたって議論の争点は何のその、結局メダルの数と感動とやらのデータとは程遠い感覚だけを後に残したまま忘れ去られてしまっている訳です。

 いつになったデータ駆動社会が実現するのか、非常に怪しいモンだと思わざるを得ません。結局客観性というのは幻想に過ぎないのではないか?こうしたデータが社会に対して開かれた状態になることはないのではないか?データはどこまでいっても全員を納得させることができるものにはならないのではないか?ということを考えてしまいます。

 常にデータ駆動している代表的なシステムが教育なんですが、そのデータの信頼性については常に異論がつきまといます。
 教育評価の恣意性と不平等性が言われたのがかなり古くてその時の成果が結実して生まれたのが1980年台から盛んに使用されたマークシート方式のテスト形態と偏差値という評価を見る指標なんだということです。
 もちろんこれは表面上今は打ち捨てられていますが、実際のところこれを越える客観性というのは今現在も生み出されているとは言えません。

 どれだけインストラクショナルデザインと言われても授業の設計については日本型学校教育以上のものが世界に存在しない以上、あとは実際にADDIEモデルやARCSモデルとやらがどれほど改善に寄与できたり、意味付けできたりするかだけの話です。
 しかもこれらのモデルの有効性を示すきちんとした検証や批判的検討というのがどこにも存在しないのです。

 評価が難しいものであって、現場にとってかなり厄介な存在であることは常に言われていることであるにもかかわらず、ここまできちんと放置される理由がよく分かりません。
 たぶんナンチャラモデルが当たり前のことをループしているだけの使えない代物であることを教員は直感的に分かっているということは想像に難くありません。セイマーモデルのひどさには何度も触れていますが、これをコスる戸田市はいずれ教育崩壊をおこすだろうという予言NOTEもそろそろ実現しそうな勢いです。

 であるなら、現場にできることは現場が産み出した教員独自の評価方法を言語化してナンチャラモデルに対決を挑むだけです。

 まず使いやすさが重要。とにかく子どもを観ることで判定できることが良い。これはみんなやっている。たぶん文章化する時間的余裕はないけど。こないだふりかえりを見ながら一言文章化したら30数人で2時間近くかかった。これは丸付けでもなんでもないので最高裁判断の教員の仕事には確実に入っていないのだが、なんとかこれと授業準備時間は労働時間として1日当たり2時間は確保してもらいたいところ。こんなこともできないくせに教員不足に対応とは片腹痛い。しかも時間を確保しないままナンチャラモデルもあったもんじゃない。ちなみに私は若手に一切の校務分掌をやらせずこの時間を確保させています。特に初任者は全てに私の2倍は時間がかかるはずです。
 
 かなり時間のかかる基底獲得を使って、子どもの出発点を定めてどれぐらいのがんばりが学校での時間のなかに存在したかを主観的に評定するのがいわゆる先生からのお言葉、所見になります。たまに事実だけを羅列するものもありますが、それよりはより抽象的な能力の高まりに着目して指摘があるものを価値ある評価であると考えます。
 この評価は教員の全くの主観になります。主観による不平等と能力の起点による不平等をきちんと前提においた評価手法です。それでも偏差値よりだいぶマシではないかと考えます。なぜならこの評価は順序を確定するためのモノではなく、学習状況を改善に導く意図が存在するからです。しかもこの評価の表明は子どもに向けての表明でありながら同時に教員自身による指導改善方法の表明であるからです。
 
 日本の学習評価は、客観を追い求めすぎました。幻想に理想を観るという過ちをおかしたわけです。

 今こそルイアラゴンの言葉、教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を心に刻むこと。という相対的な立ち位置と決意を互いに意識する必要があるのではないか?そんなことを考えたい次第です。

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