堀田龍也の「教育の情報化の現状と課題」???

 そもそも東工大は「小学校の一斉授業におけるICT活用の支援に関する研究」という大学生のレポートみたいな題名の文章に博士号を授与するとはどういう了見なのだろう。論博制度が廃止されたのはこんな馬鹿げたディプロマミルが横行したせいなのだろうけれども、どう考えても忖度されたとしか考えられない。題名見ただけで先進性のかけらもないことが見て取れる文章というのも、まあ珍しい。

 ツッコミどころというよりは、見解が全く合わない。
 意識して現場の困り感から目を逸らしているとしか思えない。

教員の年齢構成からくる課題

 教員の年齢構成を10歳で区切っていくことにもはや意味がなくなっている。50代が多く40代が少ないというが、48歳と52歳にそう差がある訳ではない。セグメントとして不適格である。「伝承が途切れるが改革のチャンスがある」というのはある意味での若手への買い被りである。
 そもそも個別性という話を出している上でセグメントに言及すること自体矛盾の塊である。
 正直現場では伝承はなくなっている。老人が誰しも伝承できる技を持っている訳ではない。持っていても指導自体がパワハラになる恐れがあるのに誰が好き好んで伝承するのかよ。
 しかも大学自体が学生に教育技術を伝達できていない現状では伝承する側にもされる側にも問題山積である。

 簡単に言えば、現場の人間関係はそんなにお手軽な話ではないというだけ。そして教員の能力は年齢では判断できないということ。

学びに向かう力

 これが一番問題。学力からの忌避を承認していることを追認している。これは教育現場にとって利敵行為以外の何物でもない。
 そもそも学力がないのに、学習するわけがない。
 学力という言葉を出さずに学力があることを前提にするのはズルでしかない。言っていることがめちゃくちゃである。
 その上で人間性や思考判断表現を高めろというのは無理筋である。
 方法論としては人格改造をしろと言っていることと等しい。というかそれ以外ない。持って生まれたキャラクターまで捨てさせろと言っているのである。
 しかも美辞麗句を並べたて、具体的な行き先を示していない。自分で学べる人間になっていない奴が他人には学べる子どもに育てろというのは、どういう論理構成なのだろうか?おまゆー感がハンパない。

GIGAスクール構想は道半ば?

 もう教育現場ではコロナもおさまり、GIGAスクール構想は一切が投げ捨てられている。少なくとも我が市ではGIGAに取り組もうなどという酔狂人はいない。利点がないからである。ZOOMにしか利用価値がなかったのにZOOMを使う必要がなくなった今タブレットは学習に無用な重たい板に成り下がっている。
 認識が完全にズレている。ベテランの力で保たれていたというがベテランはコロナ禍でもICTを使っていなかったのである。ベテランはICTに教育的な意義がないことをよくわかっている。プリントを配った方が100倍マシだからである。
 PISAの調査結果にICTはほぼ関与していない。そもそも文科省の調査に教育現場は積極的に協力していない。作文しているだけである。それをさらに教育委員会は改変を加えている。正直にそのまま文科省に渡すと大問題。だって現場が問題を読んでいないのが丸わかりだから。そんな二重にも三重にも改変された解答を信用する方がどうかしている。

自己調整学習

 これは生徒指導における自己指導能力と近い。というかほぼパクリである。学習指導と生徒指導を分ける考え方自体が教育をわかっていないというふうに思うが、自分のことを自分でなんとかすることといってしまえばそれが学習場面で現れても日常場面で現れてもそう違いがないことはよくわかるはずである。センスがない。
 人間を総体で見れば、どこかに優れている人間はどこかで劣っているものである。「主体的・対話的で深い学び」による授業改善を行っている学校ほど、ICT利用率や平均正答率が高いことが分かったということはそれ以外の部分で劣っているということである。もう少し言えば朝食が学力に直結するという調査結果があってもそれは朝食に時間的ゆとりを持てることが金銭にゆとりがあることを示しているだけということと似ている。朝食と直接相関がある訳ではなく、金銭という根本を別の言い方に変えたり、他の要素に分割したりして調査結果を誤魔化しただけである。
 学校現場に授業改善できる余力があるということは、元々子どもや教員の能力が高かったり、教員数が充足されていたり、教育環境が整っていたり、特化するという無茶が許されたりするという要素を分割統合しただけの話である。
 やはり教育現場の実情を無視したセンスのない認識である。

リーディングDXスクールや帯域問題

 正直研究指定校の教育研究が実際に教育に貢献したことは日本型学校教育の歴史上一度もない。なぜなら教員なら誰しも「そうした条件が整えられている学校だからできるんだよね」という異化を行うからである。そうした取り組みは「ウチもやってみよう」という同化を持って迎えていれられないというのは教育における正常な道筋である。
 私には大学教員にこの「教育の独自性」というダイナミズムが理解できないかが理解できない。ロールモデルを示されても独自性が強ければ、自分の独自性に寄せることができないというのは当たり前の話だと思うのだが。そもそも独自性を発揮せず決められた型をそのままやる教員の授業で目の前の子どもが全員理解している授業を見たことがない。そんな授業おもしろいわけがないからである。喋っている教員も子どもがイレギュラーな質問してきら何喋っているかわかんなくなるから全く質問は受け付けなくなるという悪循環をきちんとサイクル化していく。
 そして他人に自分のダイナミズムを押し付ける教員は大概教員から嫌われる存在である。だから実務家教員が現場にも生徒にも受け入れられないのである。

 帯域は一生改善されないと思う。鶏と卵の関係だからである。ハードが進化すればより帯域を要求されるのは自明である。
 どうでもいい帯域よりソフトウエアを問題にした方がよくないか?
 ここでもセンスのなさを露呈している。

 この人は教育現場に早々に破棄された大型ディスプレーに何百億もつぎ込むことを扇動した自分の罪にほっかむりをしてさらに教育にあまり役立たないGIGAなどということにさらに無駄なお金を使わせることで自分が焼け太りしていくことを善しとするのだろうか?
 老害確定である。

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