クラスルームにおける開放性と持続性 #1

 私はクラスルームのチカラを信じている。

 恐れずにはっきり言ってしまえば、学校に担任以外の教員はイラナイということ。小学校に教科担任制を導入するのではなく、中高に学級担任制を導入するということです。

 ナニをたわけたことを、思われるかもしれないが実際はこれが進んでいるんですよね。静かに。
 N・S高校を始めとする新しいタイプの高校は軒並み学級担任制です。教科担任を下働きであるとはっきり認めてる通信制もあるくらいです。教科担当者は非常勤であるという意味で。教科指導はオンデマンドで充分という意味で。
 これに抵抗する意味で通信制の規制を強化しようとする報道があったようですが無駄ですね。それぐらい教育とカネ儲けは密接に結び付いています。残念ながら教育の「新しい」商業化による高等学校の形骸化と学びの投げ出しは始まったばかりです。これは大学予備校と化して高等学校の学びに意味を持たせられなかった高校教員の責任です。
 特にポピュリズムにまみれた無償化が進めばさらにこの動きは今より加速するということです。
 くわえて通信制は中学校にも侵食してきていて、ここにこれからパブリックな不登校特例校が雨後の筍の如く湧き出てきます。あえて不登校特例校という言葉を使ったのはここでのその発想がまさしく「終わりの始まり」だからです。
 不登校というのは学びからの逃走という極めて個人的で恣意的で感情的な側面を内包してしまっています。端的に言ってメシのタネになると思ったバカ自称知識人がこれも不登校ですと認めてしまったからです。主体にとってイージーなほうがコンセンサスになってしまうことを知らないアホがなんでもかんでも内包して定義してしまった結果です。無能な人文系大学教員が他人に突っ込まれたときに「それももちろん含みます」という逃げ口上を吐くからこんなことになるわけです。全く意味はないけど害は山ほどあるという実例です。
 子どもや保護者にとって教育条件がよく、自分に都合がよければ通常の公教育よりそちらに流れるのは水が低きに流れるようなもんです。
 
 これらは実際に始まっているものばかりで、後は広がるだけです。ここに新しいモノが参入すればより学級担任制は広がっていくでしょう。より教科教育の投げ捨て、もっと言えば専門教育への特化が進むということです。
 あれっ、教科は専門では?と思うかもしれませんが、専門教育というのは高い次元での専門性であり、稼げるレベルの専門性です。中高の教科教育レベルを指しません。しかし、実は中高で身につける研究の基礎基本がおざなりにされて生成AIやオンデマンドにとって変わられることは実は学び手にとって短期的、短絡的にはメリットがあるように見えて本質的には損失しか伴いません。
 偏差値で大学を選んで、長い時間を経た後で人生を振り返った時後悔するという経験がその好例であると思います。。これは明確に文科省の政策やメディアの伝え方、カネを稼ごうとした予備校勢の産物です。

 しつこいですがこれは恣意的でもなんでもなくゲンジツです。事実です。

 だからこそ、今こそ、クラスルームが外部要因によって揺らがないサポートが必要だということを訴えたいわけです。それが担任制により近いというだけの話です。
 そのは訴えは学校の教員にとってもブラック化を回避するメリットがあります。何に価値があるかに共通認識を持つとき、今のように利用者だけのことに目を向けて語れば結果は働き手に不利になります。さりとて働き手のことばかり語れば子どもが置き去りになります。今の状況はまさにどっちかの話です。ひどい自治体では教員の待遇だけを考えて子どもが置き去りにされています。WIN-WINになっていないということ。個人的には極端なハナシ、三方一両損になってないとイカンでしょということ。
 今なら教員にとって何のメリットもないと思われている学級担任制に理論的援護射撃をし、子どもにもメリットが大きいという本来の姿を語ることは世の流れに反して意味があることだと考えます。
 現在流行りの理論構成たる教科担任制やチーム担任制は外部要因に対する逃げ口上でしかありません。公務員お得意の外部に言い訳するためのアリバイづくりの制度設計です。教員の側の都合に子どもをメリットの屁理屈をくっつけただけ真に子どものために使用価値を高めるための制度にはなっていないということです。
 ここでいう外部要因というのは多岐に渡ります。保護者・子ども・地域のクレームはもちろん、教員の家庭の事情や福祉的な問題、教育上の課題やまた成績や進学の価値観、評価そのものの実際的な運用、哲学的な問いに対する回答(なんで学校に行くのか?なぜいじめはダメなのか?)などまでも含まれます。
 クラスルームが担任の元で円滑に運営される上での疎外要因の全てと言えば良いでしょうか?

クラスルームは公共性を学ぶ場

 こうしたことに対応するということはクラスルームに公共性を保っていくことなんだろうと考えます。
 公共空間としてのクラスルームがきちんと保たれるということは子どもたちがその場で公共的とは何かということを学んでいくことに他なりません。

 公共性というのはいささか古すぎる話だというイメージを持たれるかもしれません。滅私奉公のような思想と繋げられがちだと思いますが、正直個人的には今でも曲がりなりにも公教育が成り立っているのは日本人が若干の公共性をいまだ有しているからだと思います。
 自由主義や新自由主義が隆盛を誇ったのは10年前までだとは思いますが、これらの思想は徹底的に公教育の思想を潰していくことになりそうだというのはその時に抱いた感覚であったことはまだ記憶に新しいです。そのようなあからさまな攻撃が影を潜めて、今では静かに無意図を装って弱者道徳の形で公的なものに対する批判がイナゴのように広がっていく様というのは逆に怖いです。動機なき犯罪行為を想起させるからです。
 
 公共性を保ったクラスルームで学びに向かって邁進する様子が学校で示されることが、それを利用者に実感させることが先に述べた学びの投げ出しを防ぐ唯一の使用価値だと考えます。単純に言えば学校があってよかったなぁという感覚です。大学がなくなって、中高で公教育の存在価値が縮減してしまった未来において小学校に対して同じ感覚を抱かれてしまえば、公的日本型学校教育が瓦解してしまうからです。

 学ぶ場としての公共的なクラスルームを維持するとはどういうことか?

 長くなって出勤の時間になったので続きは明日にします。

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