【創作長編小説】謎姫、世界を救うっ! 第20話
第20話 涙
扉付きのアンティークの本棚に、ずらりと並ぶ本。
その中の、特別な一角。
まったく同じ文言を刻んだ背表紙が、きちんと行儀よく三冊ずつ並んでいた。
一冊は、ページを自由にめくるために。もう一冊は、閉じた状態を眺めるために。そしてさらにもう一冊、保管用。
そんな同タイトルの本が、三冊ずつ、何種類か並べられている。すべて、それらは同じ作者名だった。
銀のフレームの眼鏡の男が、本棚の前に立ち、自分で決めた美しいルールに一人うなずく。
間違えないよう本の並びも、決めていた。男にとって、決して間違うということはないだろうが、万が一、保管用を開いてしまったら深い後悔と自責の念に囚われてしまう。
ポケットに入れておいた白い手袋をかける。この本棚を開けるときは、そう決めていた。
小さな取っ手のついた扉をそっと開け、一番上の棚右端の本――ページをめくるため用の一冊――を取り出す。
ため息とともに、白い綿の手袋に包まれた指で、表紙を撫でる。
『蟲』
黒のグラデーションの表紙に、爪でひっかいたような不気味な書体の白い文字で、タイトルが描かれていた。下のほうには、ガラス瓶に入った幼虫のイラストが小さく添えられている。
小説だった。
本につけられた赤い帯に、
『怪奇作家・伊崎賢哉渾身の最新作! ――侵食する現実、あなたにも悪夢を――』
そのように銘打たれていた。
そして、その下段に小さく簡単な説明も記されている。
『怪奇研究家の贈る、極上のホラー小説。夢から着想を得た、恐怖と冒険の幻想譚!』
眼鏡の向こう、男は目を細める。
「悪夢は――、順調に育っています」
伊崎賢哉は、ミショアと並んで歩いていた。
行先は、決めていない。伊崎にも、ミショアにも、わからない。
ただ、ミショアの、その瞬間心の行きたいと思う方向に向け、歩を進める。
ミショアの大きな瞳は、空を、木々を、通り過ぎる人々を、見つめる。なんの変哲もない塀や道路のブロックを、黙って見つめている時間もあった。
彼女の特殊な感覚は、様々な見えない情報を、視覚の海からすくいとっているようだった。
あてもない道の中、小さな神社や寺にも出会っていた。
「そうですか。なるほど。神様たちが、いらっしゃいますね」
ミショアは、伊崎に倣って参拝する。手を合わせ深く頭を下げるミショアの銀の髪が、陽の光に透けていた。
祈りは、届くのだとミショアは断言した。異世界の民の祈りも、こちらの作法にのっとり、きちんと届けられるのだ、と。
「ミショアさんに――、目を通してほしいものがあるんだ」
公園のベンチに並んで座った。お昼も近くなり、いったん戻ったほうがいい、という話題がどちらからともなく出たころだった。
幼い女の子の手を引く若い母親が、目の前を通り過ぎる。お母さんと繋いでいないほうの女の子の手には、赤い風船のひもが握られていた。のんびり歩く親子と一緒に赤い風船が、揺れながら遠ざかる。
時雨やバーレッドの動向は、まだわからない。ミショアの感覚では、近い範囲では今のところ戦いや危険な気配が感じられないので、たぶん異変は見られず、警戒の見回りを続けているに過ぎないのだろうということだった。
「私に……?」
伊崎はうなずく。
「はい。皆さんにも見てもらいたいんだけど……。でも、まず、ミショアさんに率直な感想をお願いしたい」
伊崎は、背負っていたリュックから一冊の本を取り出した。
あっ、と幼い叫び声が聞こえる。風船。女の子が、風船のひもを間違って放してしまったようだった。
空へ、赤い風船が昇っていく――。
「この本を――」
眼鏡の奥、鋭い目がミショアを見据える。
卵。
とび色の髪と瞳の美しい青年は、脈動する卵を見つめていた。
「急がなければ、ならないのかもしれない」
一人、呟く。
事態はどうも、青年の予測通りにはいかないのかもしれない。
掴んだと思った明照の、気配が消えた――。
青年にはもうひとつ、気がかりな点があった。
私を探る「目」の存在だ。
なにものかが、こちらを探るような気配が感じられた。逆にこちらから追跡しようとしたが、すぐに伸ばしてきた意識を遮断したのか追跡はできなかった。
強力で優秀な術者が加勢している。
明照の気配の感じられるほうへ、魔族を飛ばした。それも、倒されたようだった。
魔族の目を通し、掴んだ情報がある。
バーレッド……。彼も、九郎や時雨と共に行動を始めたのか――。
こちらの世界の青年の姿を映した魔族――前田の姿をとっていた魔族――の目から得た情報では、バーレッドは九郎を恨み、敵視しているようだった。
あのときまで、私の、狙い通りだった。
「狙い通り、彼は――、素直に王族を憎んだ」
まっすぐな性格。単純で、熱く、無鉄砲で――。
青年は、己の拳をぎゅっと握りしめる。
でも――。彼らは、互いの命までは取り合わない。きっと。それは、狙い通り。そこまでは、私の思惑通り――。
九郎、時雨、バーレッド。三人の姿が、不意に青年の脳裏に浮かぶ。
あれ。
青年は、動揺した。
自らの身に、まったく思いがけないことが起きていたのだ。
自らの、顔に。自分でも思いもよらない変化が。
青年は、頬のあたりに指を当ててみた。異変を、確かめるように。
頬をつたう、熱い、なにか。
涙。
まさか、と思った。
どうして。今更。私が――。
震える指。そこには確かに、光る己の流した涙が――。
どうして……?
唇を噛みしめ、三人の笑顔を無理やり頭から振り払うようにした。
『静月――』
小さな呼び声に、顔を上げる。
静月。そう、青年の名は、静月。今も、昔も、変わらず。
『静月』
かすかな呼び声は――、目の前の、赤褐色の卵から聞こえる。
『静月……。早く、早くもっと、私に――』
「はい……!」
静月は、涙を無理やりぬぐい、顔を輝かせた。
そして、かすかに届く不気味な声を、あますことなく聞き取ろうと、意識を集中させた。
『早く、私にもっと、たくさんの養分を――。そうすれば、あなたはもう、余計なことを考えなくてもよくなります。私が復活すれば、ずっとあなたを苛んできた、あなたの心の重苦しい枷は、消えてなくなるのです――』
静月は、声を弾ませた。
「はい……! 存じております!」
その瞬間、あちらの世界の魔族かこちらに来た魔族かわからないが、遠隔から新たな命を卵に送り届けたようだった。赤褐色の卵は、一回り大きくなっていた。
声は、一層鮮明になる。まるで、実際に目の前にいる人の声のよう――。
卵は、告げた。
『私のかわいい――、静月よ――』
「母上様……!」
静月は、不気味な卵を両腕に抱きしめていた。
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