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事後調査|俳句と川柳の相違点|便利だな~ゼロからならば~無期限か(川柳的)

『俳句を詠う』などと烏滸(おこ)がましく解き放ってしまったものの、余りにもの下準備のなさと家内との不協和音が気になり、ネット(外部)で『俳句と川柳の相違点』を調べてみました。
※noteの中に盛沢山の勉強材料がありますが、筆者の『らしさ|個性』が主体ではない敢えて外部の情報源に頼りました。辞書を引く感覚です。


「パパのは美しくない!」という言葉が耳に残って寝つけず、布団の中から起き上がってしまいました。
(「悲観の部屋」から「楽観の部屋」へ移動)

結論としては、私の発想は川柳(的)で、家内は俳句(的)であることが判明。

(家内が私に訴えた意味が、よ~く分かりました。)

ただ、解き放ってしまった代物はと言うと、川柳的であったり俳句的であったりと微妙です(苦笑)。

五・七・五の韻律は双方ともに基本ですが、決定的な違いも改めて確認できました。

<俳句>
①「客観写生」であること(私意や虚偽を排する)
②「季語」を含むこと(季語絶対/季感/無季の三派あり)
③「切れ」は重要な技巧(一瞬の休符で創造を掻き立て、余韻を醸し出す)

<川柳>
①「約束(規則)がない」(季語や切れは不要)
②「口語が主体」(柔軟な表現が可)
③「言葉遊びの要素あり」(破調、自由律や駄洒落も可)
※俳諧では雑俳に含まれた経緯あり


こうして見てみると、家内と私の性格が表れているようにも感じます。
芯は真面目の家内、神経質のはずなのに破天荒さが漂う私。
ド・ストライクの墓穴堀りの心境です(苦笑)。
※バイオリズムで破天荒さが同期した時(暴走とは敢えて呼ばず)、誰にも止められない世界が拡がります。


最終結論です。
家内は『詠う』を、私は『吐く』を目指しながら、二人で融合世界を創造してみることにします。
何だか都合の良い締めくくりとなりましたが、

『とにかく楽しく』
『自由に』
『脳の活性』

を目指して投稿したいと思います。

(現在は完全に「楽観の部屋」です(笑))

追伸
『便利だな~ゼロからならば~無期限か』(川柳的)
ネットでの情報収集は便利ですね~。つくづく感激、感謝します。
アナログ時代の学生時では、一夜漬けで知ることはできなかったでしょう。
デジタル(ネット)時代も経験できて、ありがとう。

* * * * *
※今日の悩みどころ(表現として判断に迷った事をメモし始めました)
・可能な限り簡潔に。
・イメージ写真:you_ggさん
 https://www.photo-ac.com

<note記事>|<シリーズ>
『夫婦で俳句を始めました|駄作ですが一句どうぞ(交通安全/情景/愛犬/(煙草)/(note)/∞)』


<参考情報|出典元>
俳句 - Wikipedia
川柳 - Wikipedia
季語 - Wikipedia
川柳と俳句の違い
http://www.doctor-senryu.com/01_museum/0_senryu-haiku.html


以下は、メモとしての完全切り抜き(コピペ)です。

(ここから)

俳句(はいく)は、季語(有季)及び五・七・五(十七音)を主とした定型を基本とする定型詩である。
江戸時代には十七文字と呼称され、現代では十七音とも表記される。
和歌や連句(俳諧連歌)の発句と同様に、俳句は発生の時点で無季(雑)の作品も存在しており、
無季俳句といわれる。有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句もある。
また、多くの外国語でも俳句は作られているが、外国語では季節感のある言葉でも季語の本意・本情が成立しがたく、
しかも五・七・五では切れや季語が活きる短さにならない言語が多いため、
日本で言うところの無季自由律俳句が多い。
世界最短の定型詩のうちの一つとされる。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。

特徴
俳句には次の特徴がある。

五・七・五の「韻律」で詠まれる定型詩である。
基本として「季語」を入れる。
一句の中に「切れ」が入っている方が俳諧味が感じられやすい。
余韻を残す。

客観写生
この言葉自体は高浜虚子のものであるが、その起源は芭蕉の句までたどることのできる俳句の特徴の1つである。
芭蕉の門人・土芳は『三冊子』の中でこれを「見るにつけ、聞くにつけ、作者の感じるままを句に作るところは、すなわち俳諧の誠である」と表現している。
江戸時代には客観や写生という言葉こそないが俳諧の誠というのは私意や虚偽を排し、対象をよく観察し、傾聴して、そのありさまを十七文字で表現することに全力を傾けるという意味である。

韻律
俳句は定型詩であり、五・七・五の韻律が重要な要素となっている。
この韻律は開音節という日本語の特質から必然的に成立したリズムであって、俳句の制約とか、規則と考えるべきではない。
五の部分が6音以上に、または七の部分が8音以上になることを字余りという。

季語
俳句にとって、季語は大きな役割がある。季語を必ず入れなければならないとする有季(季語絶対)派から、
季語よりも季感が大切とする「季感」派、無季でもよいとする無季容認、
無季俳句が旧来の俳句的情趣を打破するという「無季」派まで、様々な考え方がある。

季語の種類
季語はその成り立ちによって三種類に分けることができる。
まず一つは「事実の季語」で、雪は主に冬に降るから冬、梅の花は春に咲くから春、という風に自然界の事実にしたがって決められているものである。
次に「指示の季語」があり、「春の雨」「夏の山」「秋風」というように、事物の上に季節を表す語がついて直接的に季節を示しているものである。
最後に「約束の季語」があり、これは実際には複数の季節を通して見られるものであっても、伝統的な美意識に基づく約束事として季節が決まっているものである。
先述の「月」(秋)や「蛙」(春)、「虫」(秋)、「火事」(冬)といったものがその例である。
現代の歳時記においては一般に、四季+新年の五季ごとに季語の内容から「時候」「天文」「地理」「生活」「行事」「動物」「植物」という分類がなされている。

切れ
俳諧では、最初に詠まれる発句は後に続ける脇句や平句の動機となる必要がある。
そのため発句には、脇句に依存しない完結性が求められた。
そこで編み出されたテクニックが「切れ」である。上手く切れた発句は「切れがある」と評価され、重視された。
読者はその一瞬の休符の合間に、作者を取り巻く環境や作者の思想・感情・情念・背景などを勝手に想像してしまう仕掛けになっている。
このテクニックが「切れ」と呼ばれ、十七文字という限定された語数で、言葉に形と質感を与える効果を持つ。
さらに、季語とあいまって句に余韻をかもしだす。
このような「切れ」は、現代の俳句でも重要なテクニックの一つである。
切れ字は、強制的に句を切るために使われる助詞のことである。
現代の俳句でも使われている切れ字には「かな」「や」「けり」などがある。
俳句以前の連歌・俳諧の時代には「もがな」「し」「ぞ」「か」「よ」「せ」「れ」「つ」「ぬ」「へ」「ず」「いかに」「じ」「け」「らん」など、先の3個と合わせ、計18種類の助詞、助動詞が使われていた。
助詞の他には、名詞で切れることが多い。

技法
水原秋桜子が『俳句の作り方』で「注意六条 禁忌八条」を提唱した。
まず、「俳句を詠むとき、意を注ぐべき六条」は以下のようなものである。

1.詩因を捉える
2.分量をわきまえる
3.省略を巧みにする
4.配合を工夫する
5.わかる用語を使って
6.丁寧に詠む
省略については、俳句では17文字という限られた音で表現をしなければならないため、不用な言葉の省略が重要視される。体言止めにより動詞や助詞を省略したり、助詞で止めて後に来る動詞を省略したりすることが多い。また、予測可能な言葉を省くことにより、余韻を残したり時間的な「間」を表現することにもなる。

次に、俳句を詠むときで避けるべき八条は以下のようなものである。

1.無季の句を詠まない
2.重季の句を詠まない
3.空想の句を詠まない
4.や・かなを併用した句を詠まない
5.字あまりの句を詠まない
6.感動を露出した句を詠まない
7.感動を誇張した句を詠まない
8.模倣の句を詠まない
これらはもちろん、水原秋桜子の見解であり、特に無季の句に関しては様々な議論がされている。

その他の技法として、本歌取りを挙げる。これは有名な既存の俳句や短歌などから言葉を流用し、
言外に本歌の内容を表現する技法である。例えば「見わたせば山もと霞む水無瀬川」から「山もと霞む」を流用し、
言外に「水無瀬川」を示すなど。

また、句またがりという技法もある。これは、意味的な切れ目を五・七・五の音の切れ目とは異なる場所に持ってくることで、リズムに変化を与える。


川柳(せんりゅう)は、五・七・五の音を持つ日本語の定型詩である。
俳諧、すなわち俳諧連歌から派生した近代文芸である。
俳句と同じ五七五の音数律を持つが、俳句が発句から独立したのに対し、
川柳は連歌の付け句の規則を、逆に下の句に対して行う前句付け(前句附)が独立したものである。
俳句にみられる季語や切れの約束がなく、現在では口語が主体であり、
字余りや句跨りの破調、自由律や駄洒落も見られるなど、規律に囚われない言葉遊びの要素も少なくない。
かつての俳諧では雑俳に含めて呼ばれたことがある。


川柳と俳句の違い

川柳も俳句も同じ<五・七・五>の17音定型であることは、前にご説明しました。
では、どこに川柳と俳句の違いをみるのでしょうか?

<形式的違い>
・俳句には、<季語>が必用ですが、川柳では特にこだわりません。
  だいこ(大根)が??の季語。
・俳句には、<切れ字>が必用ですが、川柳では特にこだわりません。
  「けり」が切れ字。
・俳句は、主に<文語>表現ですが、川柳は<口語>が普通です。

<内容的違い>
・俳句は、主に自然を対象に詠むことが中心でですが、川柳では、人事を対象に切り取ることが中心です。
俳句では、詠嘆が作句のもとになり「詠む」といいますが、川柳では、詠ずるのではなく「吐く」「ものす」などといいます。
決して、詠ずるものではありません。

<歴史的な分岐>
俳句も川柳も、同じ俳諧の中から生れました。
しかし、俳句は、俳諧の<発句ほっく>(さいしょの一句)が独立したもので、季語、切れ字等の発句にとっての約束事がそのまま引き継がれ、
さらに、題材も発句としての格調が保てるものに限られます。
川柳は、俳諧の<平句ひらく>が独立して文芸となったもので、発句として必用な約束事がありません。
題材の制約はなく、人事や世帯、人情までも扱われます。

<例:俳句>
だいこ引き だいこで道を 教えけり

<例:川柳>
ひん抜いた だいこで道を 教えられ

俳句の目は、作者が目にした面白い風景、すなわち道を聞いた旅人に、抜いたばかりの大根で道を教える奇異な発見の感動を作品化しています。
川柳の捉え方は、目にした風景ではなく、作者自身が体験した道を聞いた際に、目の前にむんずと振り上げられた、泥のついたままの大根への驚きが伝わります。「ひん抜いた」というコトバ(動作)が、いかにも粗野な教え方をイメージさせ、格調では一茶に負けますが、風景の面白さを訴えかけます。

*俳句と川柳の違いについて、一般論を紹介しました。
現在の俳句の中には、季語も切れ字もなく、口語体のものもあります。あくまでも、歴史的な背景からの一般論です。
また、川柳で俳句に寄った作風も現れ、その境界はあいまいになっています。
今日、川柳と俳句の違いを定義づけるとすれば、形式ではなく、あくまでも対象の捉え方が風景から捉えるか、人を直接捉えるかという内容的違いによるでしょう。

(ここまで)


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