論理は何のためにあるか

論理によって何かを創造できるつもりでいるならまだ分かっていない

論理とは「それを極めれば何かが分かる」という希望によって、それを突き詰めた末に、どうしても埋められない隙間に苦しむためにあるのだ

論理を解剖すると次のようになる。

前提ー道筋(演繹)ー結論 

※帰納的なものは触れないが、区別がついていない奴はこの話を理解する段階にない。

このシンプルな3段階が、人を惑わす罠、解けそうで解けない問題、出口のない迷路である。

人のアタマの中の想像物の範囲なら、すっきりしたものが作れる。つまり成り立つ。だから人は論理的なものに希望を持つ

ところが、現実への応用に当てはめようとした途端、ほころびが生じる。

そのとき俯瞰して何が起こるかといえば、

前提を完璧にすると、道筋が狂い、

道筋の在り方を完璧にすると、前提が狂うのである。

そして、両方の体裁を無理やり整え(実は矛盾が生じているが99.9%の人間を納得させうる、言い換えれば欺く)れば、現実に役に立たないものができるのである。全く現実に応用の効かない、数学オタクが今日もやっているソレだ。

つまり、そもそもから無理げー であったと

なぜそういうことが起こるのか?ーそれは、前提と演繹の両者が超広義のトートロジーだから、である。つまり違う木に見えて、根は同じ、ということだ。

「人は他人の説明によって理解するのではない。それはきっかけにすぎず、内にあるものによって理解する」ということは、認知科学?だっけ?心理学だっけ? そういうので証明されてきてるでしょ?

それも言ってることは同じ。


あ、誰かのうるさいアホ声が聞こえるw

「違う!最新の現代科学は!!様々なものを!!創造してきたじゃないか!!それはどう説明する!!」

はいはいw あのね、有用な発見とか実用化の99%って、演繹的なもので創造してないんよ。。w

現代科学の体系はもちろん習得してるけど、別にそれを土台に開発してないんよ。。もちろん開発者はそれを声を大にしては言わないよ?

直感に従って色々やってたら、なんかできちゃった。。が本音なのだよ。

だから相対性理論だの、量子力学だのといった高尚なる科学w「そのもの」から純粋なる演繹によって発明された実用的なものなどないのですよ。

今でもなお、古典的な科学知識、とくに化学かな?のほうが役に立っていて、それを元に実験的に試されて、ある程度当たりをつけつつ、偶然の要素が大きい感じで、役に立つものが見つかっている。

それが実態なんですよ。そしてその瞬間に起こったことを何とか後から体系に入れ込むために論理的な体裁を整える。(けど、だいたいは説明しきれないw偉い教授が納得したらそこが完了地点w)

それが科学とか科学的といわれるものの実態。分かった?


さいごはポエムっぽいもので締めるかw

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人間はジグソーパズルが大好きだ。

イデア、イメージがそこにあるのにそれを見たがらない。

チラッとそれを見た後、わざわざそれをジグソーパズルに直そうとする。

ある者は「ジグソーパズルを作ったぞ~ これを完成させれば凄いことになるぞ~ おっしゃあ解くぞ~ 誰か解ける奴はいるか~」と騒いでいる。

ある者は頓珍漢な回答を小難しい言葉で煙に巻き、少しは頭の回る同じような連中と徒党を組み、それより下の者たちからの批判を遠ざけて権力と食い扶持を確保している。

ある者は「解けたぜ!」と喧伝しては、批判されてあっという間に逃走し、自分より頭のできが悪い相手に同じことをしている。それを繰り返し、自分の居心地が良くなるまで付き合う相手を下げているようだ。

ある者は「人生とは矛盾である。空しいものだ。論理など意味がない」などと達観した表情を浮かべ、前者らを眺めて都合良くマウントする内面を形成している。

ある者は「直感こそが生きる道よ」と部分的に分かっているようだが、論理的な詰めが甘かったり限界を知らないために、いつも不安を抱え距離をとってやりすごしているが、ときに権力や科学や理屈での攻撃に屈し、いつしか処世を覚え、そちらに容易く取り込まれていく。

このようにして、色々な立場であーうー悩みたいらしい。

たまーにパズル完成に迫る鬼才が何〇年かに一度くらい現われる。

彼がそこで直面し打ちひしがれるのは、決して埋まらない隙間である。

彼はそこで見たものを、悲劇的にも思える労力を注ぎ、説明を試みる。

死後にある程度認められることはあるが、日常に生きる知恵にまではならない。

「ジグソーパズル自体の欠陥」まで気づけるのはさらにその1/100くらいである。

鬼才がワンテーマで一度迫った完成を、さらに何度も前提と演繹の両方を変えて、さらに別のテーマで何度も試した人間だ。 そして確信に至る。

「おい!パズル自体が欠陥じゃねえか。嵌めやがったな。クソが!!」

しばらくすると虚しさが襲ってくる。なんなんだこの世界は

あるとすれば欠陥を体得するためにパズルをやってたんか?へえーなるほど

じゃあ何を目的にすればいいか分からない。しばらく虚無に浸っているうち

あれ?なんだ?前と違うものが見える。 隙間が埋まっている??

見える、という意味がそのときわかる。 現実のパズルの完成はないが、人間の中にそれがあったのだ。真実を 完成を 永遠を そこに見る


そしてまた現実を見る。

パズルすらロクにできんかった奴が、逃げた奴が、苦悩から逃げた者が、ちんけな処世を選んだ者が、見えた者と言葉だけ似せて、偽のことを言ってるなー と一瞬で判別がつく。

悟りだとか 出来損ないの禅問答とか ワンネスとか スピリチュアルとか、人間的な成熟とか、老成とか。 

そしてそれを区別できぬ欲にまみれた者たちの行動原理が。

それをそいつらに説明するための方法も、言葉しかないという現実

そもそも説明する必要があるのか?おまえは俺にこのあと一体何をさせたいのか? 

と上空?でニヤニヤしているであろうサムシンググレートwを思い浮かべ、

ーお前なあ、いつかそっち行ったらぶん殴るから逃げんなよ?

と一人苦笑するに至るのだ。

 






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