人文学を勉強して何が悪い?
こんにちは。
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ジョンミンです。
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現在は大分県別府市にある立命館アジア太平洋大学(通称:APU)という大学の4年生で在籍中です。ゼミでは「現代写真の芸術性と表現方法の深化過程に関する考察ー写真史・芸術史の比較分析を通して」というタイトルで卒業論文を書かして頂いております。
その他、バリスタの仕事や株式会社KOHIIにてライターの仕事をさせて頂いております。詳しい紹介や活動については以下のフォトフォリオにてご覧ください。
人文学部・芸術学部が減らさせる時代に、文化的学びを求める人が増えている背景
さて、大学生の春休みという人生最大の猶予期間にノートパソコンを開き、Noteにブログを書いている理由ですが、大学在学期間中に感じた違和感から始まります。
⚠違和感に対する個人的な考察を書く前に、あまり自分自身、世の中の「一般」について理解できていないために、社会の全体像がわかっていない上で、大学生一人ひとりの選択に対して批難するつもりもなければ、むしろ尊重したい、応援したいという前提に、意見を書き出したいのですが⚠
その違和感とは
・通年採用により入学と同時に就職活動を意識する若者
・日本の大学全般において、人文学及び芸術関連学部が縮小され、経済学、観光学、環境学といった実践的な学部が拡大されている現状
・なんとなく広がっている大学生の起業ブーム
・SDGsというわかりやすくて、それしかないような勘違いをさせてくる目標
などです。
みんなどこか生き急いでいて、大学生にじっくり物事を考えさせる暇を社会が与えてくれない構造が成立しているというか、私の中にあった、本来なら大学生はもっと暇をして、空想を繰り広げる存在じゃなかったかなという古典的なイメージが壊れています。
時代と伴い本質というものも変容するならば、忙しい中で、真面目に、何かに実践的な挑戦をし続けることが21世紀型大学生の本質なのかもしれませんが、だとしてもどこかに許容できない、許容したくない違和感があるのですす。
大学組織と社会全体が課題解決のために人材を育て、学問を教え、課題解決に取り組むイノベーションを起こしているが、その課題解決思考が目に見えないさらなる課題を生み出していることには気がついていないのだろうかと。
人文学的な思考や読書、議論は実用的ではない、と軽視され、批判され、現実逃避していると思われがちだが、人文学が人間を文化的に理解しようとする学問だと考えると、我々自身である人間という生き物について理解できず、人間社会やそれを取り囲む自然環境について、何かアクションを起こせるはずがないと思うのです。少なくとも人間が感覚や感情を持つ生き物ならば、無感覚な開発は必ず社会や環境に負担を与えるに違いないです。
つまり、人文学は実用性がないわけではない。むしろどの分野においても基礎となるモノの考え方を学ぶ広範囲に活用できる実用的な基礎学問なのだと。これが大学教育が生き急いでいるのではないかという違和感の背景です。基礎となるモノの考え方が養われていないまま、スキルを教えても何一つ深まらない。
生産性・実用性・効率性の沼
人文学にしろ、芸術にしろ生産性がない。と批判はされてしまう。
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はっきり言わせて頂きたい。
生産性がないのではなく、結果を早く求めすぎたあまりに、生産性を見い出せていないだけなのではないかと。
待てない人なんて、投資家としては、アウトだと考える。
誰かの人生の責任を取れるわけではないので
直接的に、強くは言えないけれども
同時代を生きる大学生に、そんなに生き急がなくてもいいんじゃない?という声をかけたい。
出世に対する理解がどんなものなのか、百人いれば百通りの答えがあって良いと思うので、これが出世だとは言い切れないが、例えば高い年収だとしても、富を蓄積した先に、消費の対象になるのは必ず嗜好品や芸術、文学、映画といった作品なのでないか。
誰かがつくった作品を消費することの楽しさもあるけど、人間は創造的な生き物、創り出す側の楽しさには敵わないのではないかなと、比較する訳ではないが思うのです。
だから、生産性、実用性、効率性を気にせず
何かにオタクのように夢中になったり、色々と手を出して楽しむのは
費やした時間だけモノの見方を獲得できるから、素敵なのではないかなと思います。休養も踏まえて。
卒業論文の意味:最大限言語化する
ここからは、自分が卒業論文に書いた想いを書きます。
インプットとアウトプットに要する力の差が異なる。
どれも難しことだけれども、見る、読む行為の倍以上に、書く、つくる作業は難しい。本当は100%をアウトプットすることは、とても至難なことなはずだ。この人文学系の分野は言語化し難い特徴があります。
実際、世の中の写真を仕事にしている人すべてが難解で、結局何が答えかわからない写真論とか芸術論を学んでいるとは思えないです。絶対学ぶ必要があるとも思えないです。
これは個人的な肌感ですが、仕事は一定のスキルを保持していれば、人柄とか人脈で生まれるもので、必ずしもその分野についての広い知見や高度なスキルがあるからといってうまくいくものでもないですと。それはバリスタの仕事も同様だと感じます。
しかし、自分の中で言語化できた方が、よりその分野においてのオタクになれる。つまり続く気がするのです。あと巨匠と呼ばれる人々はやっぱりその分野において抑えるべきポイントをしっかり自分なりに言語化し、理解できているという印象があります。
それが私が卒業論文の執筆に抱く想いです。
卒業制作の意味:言葉とイメージをより立体的に具現化する。
別に私が在学中の大学は芸大ではないために、卒業制作なんぞする必要はありません。しかし、個人的には卒業制作の意味も込めて、在学期間中に個展を開催して、卒業したいと考えております。
その理由としては、やっぱり学問を学んだ先にあるものは、実践であると考えているからです。どこか、上に書いた内容と矛盾しているような書き方ですが、自分の中では、アウトプットを意識したインプットではなく、遊びで学んでいる訳ではないので、学び考えた先には、アウトプットが伴うという順番の図式です。
単純に難解な写真論を読み続けても、何一つ頭の中に残らないために、読む量に比例し、その分の写真を見て、撮って、評価してもらう場面が必要だと考えています。それが卒業制作に込めた想いです。
当たり前かもしれないことだから、記録に残す。共有する。
実は少し真面目な大学生ならば、誰もが学生時代取り組むような当たり前な内容ですが、当たり前だから記録に残し、共有したいのです。
当たり前とは、案外みんな口にしないもので、わかっているつもりですが、わかっていないという状況によく陥る理解だなと思っています。
ですので、卒業論文・卒業制作の様子を不定期ではありますが、アップし続けますので、そっと除いて頂けると幸いです。またSNSやフォトフォリオも日々、更新していますので、お気軽にご感想ください。
みなさんも素敵な一日をお過ごしください。
Jongmin /ジョンミン
この先も、最終着地点はラブとピースを目指し頑張ります。