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人生の究極目的は『幸せ』である~多面的読書による幸せさがし~

「幸せについて考えてるんです」
なんて、面と向かって人にはなかなか言えないけど、
noteの中であれば許されそうなので、真面目なことを書いてみようと思います。

なぜ、幸せ研究なのか

「幸せ研究」なんて言うと大それた感じがするけど、
僕がここで意味したいのは、シンプルに「より楽しく生きるにはどうしたらいいか」くらいのレベル。

生きているからには楽しく生きていきたいですしね!
アリストテレスは次のように言っている。

われわれは、「それ自体として追及される事柄」を「ほかのもののために追及される事柄」よりも「いっそう完結したもの」と言い(中略)、
「それ自体として選ばれ、ほかのもののために選ばれることがけっしてない事柄」を「限定ぬきに完結したもの」と言っている。
そして、とりわけ幸福が、そうしたものであると思われている。

アリストテレス『ニコマコス倫理学(上)』(渡辺邦夫・立花幸司訳), p.54-55, 光文社

アリストテレスはこの前段で、我々の「行為」について次の分類をしている。
 ①「何か別の目的があってする行為」
 ②「それをすること自体が目的である行為」

わかりにくいのでランニングという行為を例を挙げると、

  • 「痩せたい!健康になりたい!」という目的をもってランニングをするのが①

  • 「走ると気持ち良いから走る」というのはランニングすること自体が目的なので②

ということになる。

そして、
②の「それ自体が目的である行為」が
「いっそう完結したもの」(=より良いもの)であると上の引用の箇所で言っているのである。

ところで、
①の「何か別の目的があってする行為」も、
その目的が何かを突き詰めていくと、最終的には「幸福」に到達する。

つまり、
痩せたい!と思ってランニングをする。⇒なぜ痩せたいのか?
痩せたらかっこよくなれるから。⇒なぜかっこよくなりたいのか?
かっこいいとモテるから。⇒なぜモテたいのか?
モテることは嬉しいことだから。⇒なぜ嬉しい気持ちを持ちたいのか?
嬉しい気持ちを持てることは幸せだから。

出てきました!「幸せだから」
でも、これにもう一度なぜ?を問うても新しい答えが出てこない。

嬉しい気持ちを持てることは幸せだから。⇒なぜ幸せになりたいのか?
幸せだと幸せだから。(?)

つまり、
「幸せ」を目指すことは何か別の目的を持たない②の「それ自体が目的である行為」であり、
「いっそう完結したもの」なのである。

人間の行為はすべて究極的には「幸せになるため」。

これがアリストテレスのいう最高善(究極目的)としての幸福であると僕は理解している。

じゃあどうやって幸せになったらいいのか?

「幸せ」「幸福」といった深遠なテーマについては、
古代ギリシアの時代から、もしかしたらそのもっと前から
名だたる哲学者たちが真剣に考えてきた。

でも、幸せに対する捉えかた百人百様で、
まだ僕はしっくりくる答えに出会えていない。

上のアリストテレスの哲学も、
「幸せとは何か」の定義であり、
「幸せになるためにはどうしたらよいか」はまた別問題である。
(なお、アリストテレスは学問によって幸せになれると説いている)

きっと幸せには
みんなが納得できるような唯一の解はないのであり
(そもそも幸せの形なんて人それぞれに違っている)、

その前提に立ち、
自分にとってぴったりの幸せを探していくしかない!
と、あるタイミングで思ったのでした。

これが幸せ研究所の発端。

多面的読書による幸せさがし

僕が読書をするのも、
究極的には「幸せ」につながっている。

どの本を読むのも、間接的により楽しく、幸せに生きていくために色々考える糧にしたいという考えがもとにある。

どうやったら幸せになれるのか?
これまでいろいろ考えてきた過程で、
今のところ以下の3つの方向性で深堀り探求読書を進めている。

  1. 「感性」について知る(美学、心理学)、「感性」を鍛える(芸術)→きっと幸せをどれだけ感じられるかはその人の感性(=センサー)に掛かっている

  2. 「遊び」「趣味」について知る。コンサマトリー(=また出ました!それ自体が目的である)なもの、「フロー」を引き起こすことに従事する

  3. 幸せになれないものを遠ざける(消費社会論、ポスト資本主義論)

この辺について、本を読んだり、人と話して考えたりしたことについて、
これからゆっくり書いていこうと思います。



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