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20世紀のアメリカ文学・短編小説を読む / J. D. Salinger, Raymond Carver

 短編小説集には独自のよろこびがある。文芸誌などで偶然出会った一本を読むのも良いが、それらがいくつも織り重なった短編集は、一つ一つの作品に個別に出会う場合とは全く異なる体験を与えてくれる。複数の作家を集めた作品集であれば、編集者がどういった読者層にどのような意図を持って届けようとしているか、という視点で楽しめるし、普段小説を手に取らない人にも効果的な入り口として機能するだろう。これに対して、私のように読書を趣味とする人に最も馴染み深いのは特定の作家の作品を集めた短編集で、特定の時期に執筆されたものをまとめたものや、特定のテーマに沿って選ばれたもの、また生涯の作品の中の傑作集などがある。わずかなページ数の中に削り出された美しい物語をいくつも連続して読む体験は、その作家に特有の筆致、テーマ、技術、世界観、そしてそれらの発展を、深さを、広さを、一挙に浴びるような楽しさをもたらしてくれる。短編集はその作家の世界を含有するちょっとした小宇宙みたいなもので、一冊の本として所有するよろこびもひとしおである。
 7-8月は、20世紀のアメリカ文学を代表する短編の名手たちの作品集を手に取ることが何度もあったり、また信頼できるスジからのおすすめという形で台湾文学短編集を買ってみたりと、短編集と何かと縁のある月だった。今回は、これらの短編たちとの素敵な(現実からの)逃避行を思い出して感想を書いてみる。

表紙めっちゃ良くないですか!?
リーディング・ジャーナルを精査するクボタさん

"Nine Stories" by J. D. Salinger

 言わずと知れた名手、サリンジャーの最も有名な短編集。これは今年のサマー・リーディング・リストに入れていたので図書館で借りて読んだ。1940-50年代を背景に描かれた作品たちなので、第二次世界大戦の影を強く感じるものが多い。サリンジャー自身の経験も反映されているのだろうけれど、どうしようもない行き止まりのような人生の中で、それでもここまで美しい物語が生まれてくるということに凄みを感じた。今回は図書館で借りて読んだけれど、できれば綺麗な装丁の愛蔵版を自分の本棚に加えたいな…。
 "Nine Stories"の作品では、実に様々な立場のナレーター(主人公)が描かれている。サリンジャーの「らしさ」を感じるのは、これらの主人公たちが抱える苦しみや悩み、迷いというのが、そのスケールの大小に関わらず、みなどこか等しく、彼らの感性をそのままみずみずしく切り取ったように描かれるところ。思春期の少女が抱える友達とのいさかいも、退役軍人が死を選ぶ前の最後の幸せも、輝かしい青春を取り戻せない夫人の絶望も、簡潔な文章の中に、失われることなく丁寧に生きた形で切り取られている。これを可能にするサリンジャーの文体というのは、どうにもほとんど再現不可能というか、執筆から数十年経った今でも全く唯一無二としか言いようがない。これを原文で読めるのは本当に幸運なことだし、本当に嬉しかった。使える言語を増やすことの喜びがここにある。

クボタさんもお気に召したようです

 私のお気に入りは、"Uncle Wiggly in Connecticut". 僻地で家に閉じ籠る生活を余儀なくされ、結婚生活と育児に疲れ果てた女性の心情をものすごく的確に表現していてすごく良かった。ちょっとした言葉選びや行動などの間接的な表現によって彼女がどのような状態かを段階的に示していく手法はいかにもサリンジャーという感じがするし、これをきわめて短い文章の中でやるので、全ての文が余すところなく面白いというすごい事態になっている。
 X(twitter)なんかで育児疲れや夫婦間の不和に悩む人たちの話を読んでいると、Uncle Wigglyは現代にも、この日本にも沢山いるのだろうと思う。あと、この作品もそうなのだけれど、サリンジャーって本当によくわからないことをずっと聞いてくる子供とそれに辟易してる親、を描くのがめちゃくちゃうまい。"A Perfect Day for Bananafish" ではそれがうまく物語を示唆するものとして機能してたりするのでさらにうまい。

"Will You Please Be Quiet, Please?" by Raymond Carver

 こちらも短編の名手として名高いレイモンド・カーヴァーの作品集。執筆されたのが1960-70年代と、先ほどのサリンジャーの作品集よりは後の年代のもの。大学図書館に日本語訳(村上翻訳堂)が並んでいるのを見つけ、そういえば村上春樹さんがエッセイでよく話題にあげていたような…?と思い出し、図書館の書庫にて原著のペーパーバックを引っ張り出してきて読んだのでした。レイモンド・カーヴァーの作品に触れるのはこれが初めてだったけれど、すっかりハマってしまった。まず表題作のタイトルを見るとわかるように、ささやかな言葉遣いひとつで人物の状況や心情を的確に表現している(しかもセンスがいい)というわけで、このタイトルの短編集が面白くないわけがない…!と確信しながら読んだのでした。

夜にお酒を飲みながらちまちまと読むのがあまりにも最高だった

 この短編集を読んで驚いたのは、ちょうど最近になって大きく取り上げられるようになった視点や問題がテーマになった作品が多く収録されていること。例えば、"Fat" や "They're not Your Husband" は他者の身体、ボディシェイプに容赦なく向けられる好奇の目や一方的な価値判断の話として、現代の読者にガッチリと嵌るものがある。これらの作品が、ただ洗練された価値観を取り上げるだけでなく、文章としての美しさ、構成の巧みさ、固有の作家性を同時に引っ提げてくるものなので恐ろしい。レイモンド・カーヴァーは、人の傷に真摯に向き合ったり、あるいは皮肉混じりの批判による表現をとったりと、かなり多彩なやり方によって、守るべき美しいものを丁寧に書く作家だと思わされた。それでいて、彼の作品の根底に流れるものはどこか一貫していて、いつも静かに、確かな技術を持ち、感傷に浸りすぎないクールさを併せ持った音楽のように流れ続けている。うーん、この作品集を村上春樹さんが翻訳しているの、あまりにも大正解なのでは…。

Could I Put Myself in Your Shoes?

 "Will You Please Be Quiet, Please?" に収録されている "Put Yourself in My Shoes" という話を読んでいて、内容には関係ないのだけれどタイトルから色々連想することがあった。今回紹介したサリンジャー、カーヴァー双方の作品を読んでいて思ったのが、米英文学では、女性の苦しみを男性の作家が描く(それも嫌味なく、素晴らしい作品として)というアプローチがかなり古い年代から当たり前にあるということ。現代文学のシーンでは、これは米英文学に限らず色々な社会的背景の文学で当たり前になっていることだけれど、日本をはじめとする東アジア文学の世界ではまだまだ圧倒的に女性の著者が多いジャンルだな〜と感じる。これは社会問題としての苛烈さや、問題が意識化されてからの歴史の浅さというのも影響しているのだろうけど、米英文学にどっぷりの身としては、うお〜もっと男性が書いたそういうのも読みたいぜ!!という気持ちになる。当事者じゃない立場に身を置いたつもりで…というのに尻込みしてしまう気持ちは大いに分かるのだけれど…。
 最近の話で言うと、米津玄師さんの「さよーならまたいつか!」はこの点において最高の形で出来上がった作品だな〜と思って心底嬉しかった。米津さんは日本の最先端をゆく最高のアーティストだ…。ありがとう…。

 

 2024年の7-8月は最高の名作たちに囲まれて素晴らしい読書日和でした。こう言うのがいつでもサクサク読める、またそれを本の虫たちとオススメしあえるというだけで、大人になって良かったな〜と思う夏だった。サマー・リーディング・リストは全然消化できてません。

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