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パルス・欲動・流体力学

 グレン・グールドは、リズムや拍子、テンポやビートなどといった音楽の時間的要素に関わる概念として「パルス」という言葉を使っている。


 これは抽象的な概念だが、ある種、物質の最小単位をなんと呼ぶか、といった問題設定に近い。原子や粒子などのように微細なレベルの「パルス」が、音楽の音響とそれを聴取、演奏、運動する際の身体と時間を直接行き来する。


 アップテンポな曲にしろ、スローテンポな曲にしろ、実際に演奏したり踊ったりする際の身体の動き(と制御)を基礎づけているのはBPMでも拍子でもなくこの「パルス」に限りなく近い。というより、むしろ、BPMや拍子を《より自由に》《より多様に》機能させるためにこそ要請されている。

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 この「パルス」概念と、初期フロイト欲動論の流体力学的イメージは限りなく近いように思われる。ぼくはまったく詳しくないが、物理学の一分野としての流体力学は現代でもまだまだ発展途上にある研究分野であるらしい。


 その一例として「少しずつ高くしていった砂山がどういうポイントを境として崩れていくのか」という研究がある。この“自然”現象のメカニズムが解明されていくと、様々なテクノロジーに応用可能になり社会にとって大きいメリットになる。


 “自然”の領域がどこからどこまでを指すかは難しい問題だが、初期フロイトが人間の精神のメカニズムを流体力学のイメージで捉えようとしていたことを考えると、伝統的には物理学によっては捉えられないものとして定義されている人間の精神(と及びそれと連関するものとしての身体)に対して「流体力学的人間観」のような観点を再検討することに何らかの有益性が存在する可能性はあるだろう。


 とはいえ、一般的には精神や感情を流体力学的に“表現”することそのものはむしろありふれている。「溜まったストレスが爆発する」といった“表現”はあくまでメタファー(比喩表現)でしかなく、実際に「ストレス」という物理的対象が「マグマ」のようには存在するわけではない。それにもかかわらず定着しているこの比喩表現のおおもとがフロイトなのだ。


 その再検討の第一歩目に、自然現象と人間のあいだにある不明瞭な境界線としての「音楽」という営みもまたグールド的パルス論を経由することで、「時間とはなにか」といった問題も含めたさらなる音楽理解が進むかもしれない。

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