見出し画像

意味の“意味”とコンテンツの公共性──もはや懐かしき『裸のランチ』

 「何かしら文章を書きたい」と思う時に、とりあえずペンを走らせることはできる。それどころか、でたらめに書き進んでいくことすら可能だ。そこまでは落書きのような「絵を描く」行為と違うところはないのだが、絵ではなく文章の場合、書き手はそこで「目的」を要求される。


 何のための文章なのか。文章を〈書く前〉と〈書いた後〉で、世界にどういった変化を与えようとしているのか。ペンを前に後ろに動かして、文章の生成を駆動するあらゆる要素は、すべてそこからやってくる。


 今からぼくが書こうとするのは、アメリカの小説家であるウィリアム・バロウズが書いた『裸のランチ』という作品の“意味”について、である。しかし、それは簡単なことではない。簡単なことではないにも関わらず、ぼくがそれを書こうとしているのは一体なぜか。


 昔、友人から『裸のランチ』について2つの質問を投げかけられた。

 ひとつは、読んだかどうか。

 もうひとつは、意味がわかったかどうか。


 その時は深く考えずに勢いで「一応読んだ」し、「一応わかったよ」と返したが、胸を張ってその返答を繰り返すことができるか、といえば自信はない。小説における“意味”という問題には、未だうまい説明を与えることができないでいる。意味の“意味”ほど言語化しにくい事柄はない。


 もしそれ以上深く追求されていたらどう答えただろうか。あるいは、こう話を反らしてその場を切り抜けることぐらいは当時のぼくにもできたかもしれない。

「それはね、きみ。これが『裸のランチ』という小説だったからこそ遭遇した謎であり、むしろきみが読んだものが『裸のランチ』じゃなかったとしたら、ぼくについつい尋ねてしまうほど小説の“意味”についてを考えることもなかったのではないか。そういう機会を得たというだけでも読んでみた甲斐があったってもんさ」と。ジェンガのように崩れてしまいそうな積み方でレトリックを詰め込んで。


 あの小説には、読み手に“意味”について内省させる作用があり、しかもその性質が「文章そのもの」と素直に対峙するときにこそ発動するという点において、やはり小説として独自の価値があったのだと言わざるを得ない。


 読んだことがあるひとならばわかると思うが、『裸のランチ』という小説はむしろ、どれだけ意味不明であるかについての説明が要らない、といった具合のものである。したがって、その文章の「読み方」と「愉しみ方」をつなげるには、また別の文章との「関わり合い方」において消費する他ない。苦手な食べ物でも、食べ合わせ次第でおいしく食べることができる。


 文脈や参考資料がなければ“意味”を感じることができないものに、どういう“意味”があるのか、という謎は一旦脇に置いておくにしても、消費にスピードと効率性が求められる近年のコンテンツの傾向からは逆行の限りを尽くした作品といえるだろうし、同時にこれからの市場で流通する作品はあまり“意味”を問われるものにはならないだろう、といったことも予測できる。


 『裸のランチ』を読む時間が勿体ない、といわれれば「そうでしょうね」としか言いようがない。ぼくはもう一度ぐらい読み返そうと思っているが、それはとても個人的な事情によっているので、もしその“意味”を説明しなければならないとしたら、その説明もまた個人的になってしまう。


 小説や物語、コンテンツというものの果たしていた役割を、こうした結果論から逆説的に語るとすれば、それらは読み手の個人史をつくり、インプットとアウトプット、内省と言語化が同時並行的に作動するシステムを提供する貴重な公的財産だったのだということができる。


 バロウズという個人の表現が、巡り巡って、誰かと誰かの会話を促進させる。目の前に現れた文章がどれだけ「意味不明な文章」だとしても、それが「バロウズというひと」が書いたか、「最新の人工知能」が書いたかで、ぼくたちの頭の中に生み出される疑問は異なる。「最新の人工知能」が書いた文章をどれだけ読んでも、他人とのコミュニケーションで前提とされる「“意味”への態度」は身につかない。なぜなら書き手たる「人工知能」は、回り回ってぼくたち自身なのであり、自分で自分に「意味の“意味”」を改めて問うことほど内省的で非言語的な営みはないからである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?