『ドクターX』第2話から見られる、思考停止に陥る罠
簡単なあらすじ
第2話は、とある大富豪の親子と、ドミノ師である恋人との、生体肝移植が描かれるストーリーでした。
大富豪である父は、誰からも移植を拒否され、早く死ねばいいとまで言われていた。
親が嫌で家を離れた娘(上白石萌歌)の恋人はドミノ師だが、肝硬変を患い、移植するしか手段はなかった。肝臓を提供したい萌歌だが、家族でないと、ドナーになることはできない。
そこで大門未知子が思い浮かんだのは、「ドミノ式生体肝移植」だった。萌歌に、父親への生体肝移植ドナーとなり、その父の肝臓を恋人に移植させるというもの。
しかし、大富豪の手術には、重要な患者の為、大門は外される。
そこで、部長達がAI医療による指示の下、手術に臨むのだが、ドミノ式に血管が損傷し、AIの判断は「インオペ」。手術の失敗を意味していた。
手術を失敗すれば、術後に確約されていた10億円の寄付が水の泡となる。病院を再建したい副院長は、あくまでAI指示の下、手術を続けるよう説得するが、AIを担当していた部長の潮は、頑なにAIの指示に従い、インオペにしようとする。そこに、大門未知子が現れ、AIのスイッチを切り、見事に手術を成功させる。
取り出した父親の肝臓も、萌歌の恋人に無事移植を成功させ、世界初となる「ドミノ式生体肝移植」を成功させた。
思考停止に陥った、AIへの過信
今回の話で取り上げたいのは、AI担当の部長である潮が、10億の損失や自身の立場を失う大きなリスクがあったにも関わらず、手術の失敗となるインオペにしようとしたかということです。
潮がどんな理由でAI医療を信じているのかはわかりません。この先描かれるのはとわかりませんが、少なくとも、潮は、絶体絶命の状況にも関わらず、インオペしようとしました。
その理由の一つとしては、AIの指示を無視してまで治せる腕がなかったということ。
もう一つの重要な理由としては、自分ではないAIに判断させ、自分で責任を取ろうとしなかったことです。そのままインオペで手術を終えても、「AIの指示に従っただけです。それが副院長の方針です」と言い切り、手術の失敗の責任を取るつもりも、迫られなければ辞職するつもりもなかったでしょう。
ある意味、10億の損失や自分の立場が危ぶまれるリスキーな状況の中で、潮は思考停止に陥ったのです。
思考停止の危険な罠
それは、AIという自分ではない他者を力を自分のもののように考えていたり、確かに優秀なAIを信じる事で、自分の努力を放棄した事です。
こういったことにとても近いものを感じるのが、「新興宗教」によくあるような関係性です。
例えば、オウム真理教が、松本サリン事件、地下鉄サリン事件を起こしましたが、普通に考えれば、あり得ないことです。実行犯は、教祖の麻原彰晃の指示によって、犯行に及びましたが、普通に考えて、自分が言われたらそんなことしますか?ってことですよ。それでも彼らは犯行に及び、ずっと後悔の念を抱えて生きた人もいたようですが、取り返しはつきません。
そもそも、なぜそんな事をしでかしてしまったのかというと、何らかのきっかけや原因があり、教祖を盲信し、認めてもらうという承認欲求や、出世欲、そして、一番は「洗脳」です。信じている人には申し訳ないですが、新興宗教や「カルト」と言われる宗教を信じている人は、100%間違いなく洗脳されています。良い悪いは別にして、100%です。
信じている人が、信じている間は、その宗教やコミュニティでいう「幸せ」を感じられるのでしょうが、それは、所詮その枠内のものでしかありません。そして、「虎の威を借る狐」じゃないですが、所詮は自分自身の考えや価値観で生きるのではなく、「教え」であったり「マインド」というものに支配されて、生きることになります。
ドクターXに話を戻しますが、どう考えても、AIを信じて指示に従う事は、おかしい訳です。それでも、執刀医の潮が判断を変えなかったのは、まさに教祖のように副院長の指示に従い、その「教え」をAIだと見立てて見ることができます。その構造は「洗脳」と同じと言わざるを得ません。
最終的に信じられるのは自分自身のみ
第2話を見ていて、潮の行動が、思考停止によるもので、それが自分自身を信じたものではなく、AIを頼り、アテにすることで努力を放棄した姿に見えたのです。潮の思考停止した姿から見えてきたのは、「新興宗教」にあるような関係性であったり、「洗脳」というようなものでした。
何かをアテにしたり、自分自身の努力や考えを疎かにしたり放棄してしまうようなことは、往々にしてあると思います。それは、大なり小なり誰にでもあるものだし、時にそれは必要なものかもしれません。でも、自分の人生や、誰かの人生を左右するような時に、「思考停止」に陥ってしまうようなことがあれば、それは取り返しのつかない事を招く可能性があります。そうならない為にも、潮のようではなく、大門未知子のように自分を信じ、信じるに足るだけの努力をすることが大事だなと思います。何かにすがろうとしても、一瞬は助かるかもしれませんが、何かにすがっていきても、救われることはありません。
誰かに憧れたり、信じることはあると思いますが、その誰かは責任をとってはくれません。自分のケツは自分で拭くように、最終的には本当に信じられるのは自分自身のみだと思います。というより、自分が納得して生きられるには、こういう考え方が必要だと思いますし、「道楽」という生き方になくてはならない考え方です。
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