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俳句の源流を歩く|酒折の歌③(全8回)

にいばり つくはをすぎて いくよかねつる 倭建
かがなべて よにはここのよ ひにはとおかを 御火焼翁

「筑波の道」ともいう連歌の始めは、このような、他愛もない会話のようなものだった。しかしヤマトタケルは、そこに何かを感じて、翁を東国の造に任命した。
 それが何だったのかは、今となっては分からない。恐らく、俳諧の連歌に結びつくような「滑稽」が潜んでいるのであろう。

 ある説には、十日夜に結びつけるものがある。十日夜とは、旧暦十月十日に行われる、甲信越から東北地方における収穫祭である。
 ただ、旧暦十月に出征したとの記述は日本書紀にあるが、ヤマトタケルがこの日に酒折に滞在したという記録はない。また、異国に生まれて征服に来た者が、異国の行事を楽しむ余裕があるのか、疑問も残る。

「甲斐説」というのもある。「かがなべて」の頭と「ひにはとおか」の頭を繋げて、酒折のある「甲斐(かひ)」を導くという説である。
 同様に「数え歌説」もあって、「ここのよ」の「九」と、「とおか」の「十」を誘導するように「つくは」の「は(八)」が働くという。
 けれども、いずれの音節も、印象的な結びつきを形成しておらず、取って付けたような説に思えてならない。

(第11回 俳句のさかな了 酒折の歌④へと続く)

【画像は筑波山から眺めた関東平野】
筑波山では、古くから歌垣が行われていたことが知られている。新治は、筑波に隣接する地域で、新治郡衙跡が筑波山の北西10キロメートルほどのところにある。筑波山から西南西に富士山を見ることができるが(霞んでいたために画像には映っていない)、その右裾あたりが酒折になる。直線距離で約150キロメートル。古事記におけるヤマトタケルは、常陸地方から足柄(神奈川県)に入り、山越えをして酒折に入ったと読める。