情句百物語

「俳家の酒」から受け継いだ「己を見つめる精神は太古から受け継がれてきたものなのか?」という課題に対する私見は、「酒折の歌」➅➆あたりに入れてみたのですが、未だ思案中… https://yeahscars.net/(六)

情句百物語

「俳家の酒」から受け継いだ「己を見つめる精神は太古から受け継がれてきたものなのか?」という課題に対する私見は、「酒折の歌」➅➆あたりに入れてみたのですが、未だ思案中… https://yeahscars.net/(六)

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  • 俳句のさかな

    俳句の「こころ」は、神々が歌った太古から受け継がれてきたものなのだろうか?日本酒を酌み交わしながら綴る、現代酒場の俳諧譚。「俳家の酒」8本「酒折の歌」8回、合わせて全16回。

  • カッコいい俳句を詠みたいんじゃ!

    ろくでなしと呼ばれた男の俳句修行日記全50本。ボクはなぜ俳句を詠むのか・・・このヘンテコな難問に迫る!

最近の記事

結びの告白|言葉に病んで俳句にかける

▶ 初めて知った 俳句の面白さとはこういうことだったのか…  以前から俳句に親しんできた身ではありますが、制約に向き合う中で、表現とは何ぞやという疑問が生まれ、言葉に詰まってしまうことが多々ありました。その都度、芭蕉や子規へと帰るのであります。  特に子規の提唱した「写生」は、行き詰まった身に光を投じてくれるものとなりました。ありのままを言葉でなぞり、見える景色をシンプル化する…  しかし、写しとることへのこだわりは、技術論へと行きつき、次第に視点が不明確になっていったもの

    • 俳句の源流を歩く|酒折の歌(最終回)

       さて、彼女が出て行ってから九夜十日。音沙汰もなく不安ばかりが募る中、俳句を並べて気を紛らわせている。  と言ってもそれは他愛ないもの。他人にとっては、意味をなさない駄句のかたまりだろう。けれども、ある人が言っていた。 「披露する目的で詠んでは駄目だ。」  ヤマトタケル以降の日本は、柿本人麻呂も言うように、「言霊の幸はふ国」。言霊の結晶である「歌」が、一己の幸せを導くところとなったのだ。  歌をうたえば、世界が現れる。神々が歌って天下を生み固めた時代は過ぎ去り、その響きを宿

      • 俳句の源流を歩く|酒折の歌➆(全8回)

         酒折の歌の功績は、自問をも許容したこと。それは、想念が歌になるということを明らかにした。  その瞬間、神々の計らいの産物であった和歌が、個々の内面を映し出す鏡ともなった。ここに歌は、人々が内包する「苦しみ」に関わり、「苦しみ」を和らげる道具としての役割を担い始める。  起点となるのは、ヤマトタケルの辞世とも言われる思国歌。 倭は国のまほろば たたなづく青垣 山隠れる倭し美し (大和は素晴らしいところ。幾重にも重なる青垣。山に覆われた大和の美しさよ。)  この歌の画期的な

        • 俳句の源流を歩く|酒折の歌➅(全8回)

          (メモ)和歌とは何か  古代の歌 ⇒ 呪と伝  酒折の歌 ⇒ 想と呪  酒折の歌 ――― 唯一分かる確かなことは、ヤマトタケルの五(四)七七を、翁が五七七で受けたということ。そのことで、定型を有する歌が出現。  けれども、それだけではなかっただろう。もしかすると、当時残っていた歌謡の中に、翁の歌と同じような語調を持ったものがあったのかもしれない。それを面白いと言って褒めた可能性も、無いとは言えない。  もっとも、ヤマトタケルの置かれた立場を思えば、そこに「呪」があったと見

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        • 俳句のさかな
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        記事

          俳句の源流を歩く|酒折の歌⑤(全8回)

           古事記にいう「酒折の宮」――― 二千年を隔てた現在では所在不明であるが、最有力とされる場所が、酒折駅近くにある。  その名も「酒折宮」。ヤマトタケルを主祭神とする神社で、その御神体は、焼津で命の窮地を救った火打嚢。伝承では、東国の造に任命された御火焼翁がここに留まり、この宮を中心として東国を開拓したという。  その日は雨であったが、春らしい優しい雨。境内の所々に咲く小さな花々を撫でるようにして、雨は参道を潤していた。  それにしても、清々しい場所。観光地らしさというものは

          俳句の源流を歩く|酒折の歌⑤(全8回)

          俳句の源流を歩く|酒折の歌④(全8回)

           この歌に潜む謎。僕はそれを解こうと、酒折に出向いたことがある。  季節は春。というのも、酒折の項の直前となる、古事記の足柄の坂下での挿話に、このような記述を見たからである。 足柄の坂下に到りまして、御粮きこし食す処に、その坂の神、白き鹿になりて来立ちき。ここにすなはちその咋し遺れる蒜の片端もちて、待ち打ちたまへば、その目に中りて、打ち殺しつ。  つまり、酒折に向かう途中の足柄の坂下で食事をしていた時、敵が白い鹿となってやってきたというのだ。その時ヤマトタケルは、食べ残し

          俳句の源流を歩く|酒折の歌④(全8回)

          俳句の源流を歩く|酒折の歌③(全8回)

          にいばり つくはをすぎて いくよかねつる 倭建 かがなべて よにはここのよ ひにはとおかを 御火焼翁 「筑波の道」ともいう連歌の始めは、このような、他愛もない会話のようなものだった。しかしヤマトタケルは、そこに何かを感じて、翁を東国の造に任命した。  それが何だったのかは、今となっては分からない。恐らく、俳諧の連歌に結びつくような「滑稽」が潜んでいるのであろう。  ある説には、十日夜に結びつけるものがある。十日夜とは、旧暦十月十日に行われる、甲信越から東北地方における収穫

          俳句の源流を歩く|酒折の歌③(全8回)

          俳句の源流を歩く|酒折の歌②(全8回)

           甲府で普通列車に乗り換え、一駅戻る。住宅地の中に小さな駅があり、酒折という。酒折は「さかおり」と読み、酒造に因んだ地名とも、「坂下り」の意とも言われている。  古事記や日本書紀では、ヤマトタケル東征の項に登場し、古くは、国府も置かれた要衝だった。今では、駅の向こう側から、学生の元気な声が聞こえ、家と家の間の細い路地に、猫が転がる。  恐らく彼女は、そこに何の変哲も無い日常を発見するだろう。  まだ、この国がかたまっていなかった頃、日常を打ち破る命が発せられた。東の方十二道

          俳句の源流を歩く|酒折の歌②(全8回)

          俳句の源流を歩く|酒折の歌①(全8回)

           俳句を詠めば、「縛られた人ね」と笑うひと。理由を聞くと、「ありのままの美しさを受け入れられないから」と、感動を言葉に置き換える一手間を指摘する。 「そのことが新たな発見につながる」などと言ってはみても、どうやら彼女の心に響かない。本物の美とは、むしろ言葉を奪い去るものなのだと。  結局僕らは虚しくなった。彼女は荷物をまとめ、「あなたのことを探してみるわ」と、あずさの切符を握りしめていた。  その特急券には、「甲府」の行先。僕は常々、その街にある聖地のことを話していたのだ。

          俳句の源流を歩く|酒折の歌①(全8回)

          これからはじまる物語の序に代えて

          これからはじまる物語の序に代えて

          俳家の酒 其の八「白鷹」

           だが待てよ。これでは答えになってはいない。神々の歌には言霊に寄せるものがあるが、果たして現代俳句において、それを意識することがあるのだろうか?  考えるほどに、あの人の残していった課題には「No」と答えざるを得ない。太古の歌を祈りとするなら、現代俳句はこころの叫び、あるいは呟きとでもいうようなもの。心を突き詰めることなど、神には必要とするはずもなかろう。だから、 「己を見つめる精神は、神代から受け継がれてきたものなのか?」 という問いに「Yes」とは言えない。  ところで

          俳家の酒 其の八「白鷹」

          俳家の酒 其の七「三文字」

           ところで、かつて日本一の酒どころであった伊丹の地は、伊丹風俳諧が起こったことでも知られている。池田宗旦が開いた也雲軒が核となり、裕福な酒造家を中心に文芸が盛んになった。  そのような中から、「東の芭蕉、西の鬼貫」とも讃えられた上島鬼貫が生まれている。鬼貫の生家は油谷の屋号で知られ、今はなき「三文字」を醸す大きな酒造だったという。  夏の日のうかんで水の底にさへ  これは鬼貫の句。それをなぞれば、連綿と現代に繋がる精神に触れられよう。心の内が鮮やかに浮きあがってくる。 「

          俳家の酒 其の七「三文字」

          俳家の酒 其の六「白雪」

           鰯雲ひとに告ぐべきことならず 楸邨  俳句の歴史は、試行錯誤の連続だ。子規の唱えた写生がむしろ足枷となり、哲学が欠落した言葉の羅列が横行。文学者・桑原武夫氏に第二芸術と揶揄されて、反論に窮した終戦直後の記憶もある。  そんな中でも生きながらえたのは、句会を中心とする座の文芸としての性格を有しているからだろう。言わば、文学というよりもゲームのような面白みが、多くの人を引き付ける。だが、それもまた芸術から乖離する要因だ。  川柳は、既に芸術性を捨て去っている。それ故に自由だ。

          俳家の酒 其の六「白雪」

          俳家の酒 其の五「男山」

          「大将、よく知っているね。」 「なに、うけうりだよ。」  あいつの言っていることだから信憑性は保証しないと前置きし、「俳句」の名称自体は既に松尾芭蕉の時代に存在していたことを教えてくれた。それは、川柳につながる前句附にも適用。滑稽を表す「俳」の意味を考えた場合、 「川柳こそが正当俳句と呼ぶにふさわしいのかもしれない」 と笑いつつ・・・。  川柳は、江戸時代中期に活躍した柄井川柳の個人名を冠するジャンルだ。俳句と同じく俳諧の流れを汲むが、俳句が発句から進化したのに対し、川柳は

          俳家の酒 其の五「男山」

          俳家の酒 其の四「獺祭」

           帰宅後、酔いの醒めぬままパソコンを開いた。俳句と俳諧の違いを知りたかったが、酔いもあってかよく分からない。  そもそも明治になるまでは「俳諧」が幅を利かせていた。俳諧というものは、その名の通りおもしろみを追求するもので、十世紀ころに名を得た誹諧歌に語源がある。本来は、「俳諧の連歌」の中で発展してきたもので、句を幾つも詠み連ねたものを指すものであった。最初の句である「発句」は俳諧の要であり、俳人たちはそこに力を注ぎ、多くの名句を生み出している。  しかし、異なる文化の流入が、

          俳家の酒 其の四「獺祭」

          俳家の酒 其の三「餘波」

           この穢土に生きるということは、苦しみを味わうこと。苦しみは天罰などではなく、喜怒哀楽の種である。同じ景色を見てさえも、感情一つでその色は万化する。出来得るものなら、常に喜びの花を咲かせたいものだが。  芭蕉は苦行者である。社会の底辺に身を委ね、宇宙を言葉に置き換えてきた。それは、苦しみを「句」にすることで、神の姿なる「美」を、人のものなる「喜怒哀楽」で照らし出す試み。つまり、世の不明を言葉で補い、神を見つめようとすることなのだ。  もっとも、それでさえも宇宙は測れぬ。個人の

          俳家の酒 其の三「餘波」