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俳句の源流を歩く|酒折の歌⑤(全8回)

 古事記にいう「酒折の宮」――― 二千年を隔てた現在では所在不明であるが、最有力とされる場所が、酒折駅近くにある。
 その名も「酒折宮」。ヤマトタケルを主祭神とする神社で、その御神体は、焼津で命の窮地を救った火打嚢。伝承では、東国の造に任命された御火焼翁がここに留まり、この宮を中心として東国を開拓したという。

 その日は雨であったが、春らしい優しい雨。境内の所々に咲く小さな花々を撫でるようにして、雨は参道を潤していた。
 それにしても、清々しい場所。観光地らしさというものは微塵もないが、それだけに静かな威厳に満ちている。

 この気に惹かれた江戸時代の俳人に、大淀三千風がいる。
 三千風は、矢数俳諧の先達で、芭蕉にも影響を与えた放浪の人。西行の鴫立庵再興でも知られ、「今西行」とも呼ばれた俳人である。
 貞享三年(1686年)に訪れた三千風が、「当所酒折天神は連歌の濫觴なり」と記してより、文化人が名を連ね、境内には大きな石碑が並び立つ。そのひとつに、「酒折宮寿詞」。

 酒折宮寿詞は、「古事記伝」で知られる本居宣長が撰文したもの。それを、弟子である平田篤胤が揮毫。内容は、ヤマトタケルの業績と、連歌のはじめとなる新治筑波乃大御歌が詠まれた酒折宮を寿ぐものである。
 石碑は、鳥居を潜って左手の手水舎の手前。折からの雨にも凛として佇み、無明を払う力を碑面に漂わせている。

 碑文に向き合った僕は、異次元に誘い込まれたような気持ちになって、ペンとメモを取り出していた。

(第13回 俳句のさかな了 酒折の歌➅へと続く)

【画像は酒折宮寿詞】
「さかをりのみやほぎごと」は、寛政3年(1791年)に成る。酒折宮境内には他にも、山縣大貮の「酒折祠碑」や新治筑波乃大御歌を刻んだ「連歌の碑」、辻嵐外の「月の雲雲から先に離れゆき」の句碑がある。また、背後の山腹の古天神にある巨石群の中にも、新治筑波乃大御歌が刻まれているものがある。